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「弱者男性」は何故フェミニズムを敵視するのか

sexuality

「キモくて金のないおっさん」のインパクトがすごい。しかし、「金のない」は分かるとして、「キモくて」とはどういうことだろうか。「キモくて」は客観的な容姿の醜さのみではなく、自意識の要素を多分に含む曖昧な言葉のように思える。多様な解釈が可能だろうが、この記事では「キモくて」を「異性に性的な関心を持たれない(故にパートナーがおらず、将来できる見込みも全くない)」と解釈して、何故彼ら「弱者男性」がフェミニズムを敵視するのか考えてみたい。

家父長制の崩壊と恋愛の完全自由化

元々日本の家族形成において「恋愛」の占める役割は大きくなかった。

恋愛不適合者には「見合い結婚」というセーフティネットが用意されていた。

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グラフ:恋愛・見合い結婚の構成比と生涯未婚率の変遷(恋愛・見合い結婚の構成比については「第14回出生動向基本調査」の、生涯未婚率については「人口統計資料集(2015)」のデータを用いて作成)

そしてたとえ「恋愛結婚」でも、「家父長制」に基づく「男は仕事、女は家庭」という徹底した分業主義によって女性は社会から疎外され、男性に経済的に従属する立場にあったため、「男女の対等な関係」を「恋愛」とするならば、そのような概念は旧来の日本の家族観には極めて限定的にしか存在しなかった、と言うこともできるだろう。

マルクス主義フェミニズム」(上野千鶴子マルクス主義フェミニスト)は、女性を労働市場から疎外し、家事や育児等の、報酬の発生しない再生産労働に押し込める「家父長制」を男性による女性支配の根源的構造であるとして激しく批判した。彼女らの闘争は成功し、家父長制は打倒されつつある。

実際に起きていることは、フェミニズムの間接的な影響で家父長制の支配構造に目覚めた妻が夫に抵抗し、その様子を見て育った子が家父長制に疑問を呈するようになる、というモデルで説明できる(家父長制下の子の教育は全面的に母に委ねられているため、子の人格形成に、母の「家父長的な夫」に対する反発は強い影響を及ぼす)。

近代家族の成立と終焉

近代家族の成立と終焉

息子にとって、父は母に恥じられる「みじめな父」になり、母はその父に仕えるほか生きる道のないことで「いらだつ母」になる。だが、息子はいずれ父になる運命を先取りして父を嫌悪しきれず、「みじめな父」に同一化することで「ふがいない息子」と化す。

こうして家父長制は男女関係を支配するシステムとしての地位を失い、代わりに「自由恋愛」が台頭することになる。近代の呪縛から解放され、「自由に、誰とでも」恋愛できる時代が訪れたのだ。

しかし、建前上可能であるということと、実際に可能であることには大きな隔たりがある。

家父長制から自由恋愛へのシフトが基本的に一世代で起きているため、日本には自由恋愛を支えるための社会的文化的な基盤がまったく整備されていない。

依然として性的な事柄は社会的にタブー視されており、学校の性教育は実際的な内容を一切持たず、スキンシップ文化も無いために身体接触に対するハードルも極めて高い。

このように自由恋愛に関わる社会的な共有知がまったく無い状態では、恋愛適合者によって自由恋愛にコミットするために必要な知識は独占され、恋愛弱者との間に格差が生まれる。厳密に言えば情報にアクセスすること自体は弱者にも可能だが(インターネット上にも恋愛に関する優れたコンテンツは多くある)、恋愛弱者には恋愛に関する情報を正しく読み取るためのリテラシーが無いため、実際には「共有知」から疎外されている。

もう既に終わってしまった家父長制の栄光への執着を捨てられずに、家父長制を終わらせたフェミニズムを「弱者男性」が攻撃しているというわけだ。

私は「キモいおっさん」と言われるとまっさきに「サラリーマン川柳」を連想する。

「お疲れ様」 妻の代わりに ナビが言う  フォー教師
くしゃみまで 妻に遠慮の 定年後  名ばかり亭主
子が巣立ち 「さあ、これから」と 妻も去る  ハルザクラ
“めし”“ふろ”に 下さいついて 妻動く  元威厳パパ

時代の変化に適応できずに家父長制にしがみつく醜態をユーモアと勘違いしている様は本格的にキモい。キモい、が、彼らには妻がいる。キモいおっさん同士にも多様性のある複雑な時代に私たちは生きているのだ。