日本のフェミニズムの歴史と非モテの陥る「男女平等」の罠

一連の「弱者男性」議論と関連した下の匿名ダイアリーを読んでいて、ある既視感に遭遇した。

フェミニズムは、「女性の地位向上」ではなく「ジェンダーの不平等を解消するための運動」(ジェンダーフリー)だと私は理解しているんだけど、その観点から考えれば、女性のジェンダー不平等だけではなく、男性のジェンダー不平等も解消する義務がフェミニズムにはあると思う。少なくとも、理念上無視していい話ではない。

半世紀ほど前までの社会では、男性優位が圧倒的だったから、女性の地位向上だけを訴えていればよかったのだろうけれど、現代社会では女性が男性よりも優位に立っている場面も多くあると思う。それが最も顕著に現れているのが「性愛」の場であり、それゆえ弱者男性論は「非モテ」論と相性がいい。

フェミニズムジェンダーフリー、男女平等を志向する運動であり、恋愛の場では女性が優位だという論法、これには色々と思うところがある。

「男女平等」という概念と「非モテ」の相性は極めて良い。

まず結論から言うと、非モテは男女平等などという概念はただちに捨てて、以後二度と省みない方が良い。「男女平等」のどこがまずいのか、これから説明する。

非モテが「男女平等」ということを考えたとき、それは「男性と同等」の意味にしかなり得ない

私はかつて、非モテでミソジニストでフェミニストだった。自らが性的な関係性から疎外されていることに何らかの答えを求めて熱心にフェミニズムの本を読んでいた。そして全くモテなかった。

私も赤木さんや琵琶さざなみさんのように、女性を性的に差別しない、男女は平等であるべきだ、ということを強く思っていて、実際そのように実行していた。しかし女性を差別しない、ということを額面通りに実行すると、それは実際には女性を男性として扱う、ということに限りなく近くなる。ヘテロ男性が女性を男性として扱うということは、自分は女性に対して性的な視線を向けない、また、(男性と同等である)女性は自分に性的な視線を向けない、ということであって、自分と女性の関係性のどこにも性的なものは存在しない、ということになる。しかしそれでも「モテたい」というのは、この世界に存在しない幻を掴むような話で、実現されるはずがない。

フェミニズムの歴史との関係

フェミニズムには「エコロジカルフェミニズム」という一派がある。人間による(男性による)自然破壊と、女性への抑圧を重ね合せて、「女性原理」の復興を唱え、「男性原理」である「近代」そのものの転覆を試みる思想だ。

エコロジーと女性: エコフェミニズム, ラディカルフェミニズム, 環境思想, ディープエコロジーなど

青木やよひは右記の論文で次のように述べる。女性がみずからの女性性を無視して単に男性との平等だけを追求するようなフェミニズムは、近代社会の欺瞞を男性とともに上塗りするだけである。いま必要なのは「女性性」を探求することであり、それはフェミニズムに逆行することではなく、むしろよりラディカルな地平へと至ることである。

しかし日本でのエコロジカルフェミニズムを代表する青木やよひと、マルクス主義フェミニズム上野千鶴子との間で1980年代半ばに「青木・上野論争」が展開され、その後、日本でのエコロジカルフェミニズムは衰退した。

私は当時の議論の詳細を把握していないのだけれど、もしエコロジカルフェミニズムフェミニズムの主流となっていたら、フェミニズムはラディカルな左翼運動に留まり、何ら現実的な成果を挙げることが出来なかっただろう。

日本のフェミニズムの主流は暫定的に「近代」という(「男性」という)枠組に従い、その枠組の中での女性の権利向上を意図して、女性を家事労働から解放し、労働市場に男性と同等に参加できるようにする、ということを目指してきた(目指している)。

つまり、専門的な内部での議論は抜きにして、フェミニズムが実際に社会的に実現してきたことにフォーカスすると、フェミニズムは男女平等、女性を男性と同等にする、ということを目指しているように見えるのであって、これは非モテフェミニズム理解と重なる。

しかしフェミニズムの主流が志向する(志向しているように見える)「男女平等」というのは、複雑な議論と現実との摺り合せを経た極めて政治的なものとしてのそれであって、「モテ」(プライヴェートな領域での男性と女性のセクシュアルな有りかた)とは何ら関係がないのだ。

「男女平等」ということを、原理的に、汎用的に考えてしまうのが非モテ非モテたる所以であって、非非モテが共有するある種の「常識」から非モテは疎外されている。非非モテは自らの経験から得られたその常識をもって非モテを差別し、迫害する。非モテが何を言っているのか、彼らには分からない。私も既に恋愛を経験しているので、非モテを迫害する立場の人間だ。

非モテは目を開いて自らと他者の心に向き合い、真理を見極めなければならない。女性のことが嫌いでも、憎んでいても、あなたの今の心がそうならば、それで構わない。「男女平等」は政治的な標語であって、本質ではないのだ。男性と女性は同質ではない。あなたと私は同じではない。