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『ジェンダー・トラブル』1.2.〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジェンダー・トラブル』

  1. <セックス/ジェンダー/欲望>の主体
    1. フェミニズムの主体としての「女」
    2. 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序

1.2.「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序」の見どころ

1.2.では、この本の要となる、セックス/ジェンダーの区別の否定が提起される。生物学的な性を表す「セックス」と文化的な性を表す「ジェンダー」の区別は、誰もが知っているジェンダー論の基礎のように認識されている一方で、実は1990年にバトラーによって否定されていた。文化的に構築される「ジェンダー」という概念を理解することによって、自らの性が社会的に抑圧されている可能性に気づく。その気づきを与える点において、ジェンダーというのは画期的な概念だった。しかし、このセックスとジェンダーの二分法、よくよく考えると様々な疑問が湧いて来る。セックスが生物学的な身体だとして、身体から分離された性など有り得るのだろうか。また、社会的に形成され、時には個人の性を抑圧するものがジェンダーだとして、では、本来あるべき性は何と呼べば良いのか、それもまたジェンダーなのか。バトラーは、セックスもまたジェンダーと同様に社会的に構築されていると述べ、従来のジェンダー認識の刷新を提案する。

従来のセックスとジェンダーの区別

そもそもセックスとジェンダーの区別は、〈生物学は宿命だ〉という公式を論破するために持ちだされたものであり、セックスの方は生物学的で人為操作が不可能だが、ジェンダーの方は文化の構築物だという理解を、助長するものである。つまり、ジェンダーはセックスから因果的に導きだされる結果などではなく、またセックスのように固定しているように見えるものでもない、という理解である。

まずバトラーは、従来のセックス/ジェンダー二分法の考え方を検討する。

セックス/ジェンダーの区別は、性別化された身体と、文化的に構築されるジェンダーのあいだの、根本的な断絶を示唆することになる。さしあたって性別という安定した二元体があると仮定したとしても、「男」という構築物がオスの身体から自然に生まれ、「女」はメスの身体だけを解釈するものとは言えない。さらに、たとえセックスが形態においても構造においても疑問の余地のない二元体のように見えたとしても(それもいずれ問題となる)、ジェンダーもこの二つのままでなくてはならないと考える理由は何もない。二つのジェンダーという仮定は、ジェンダーはセックスを映す鏡だとか、たとえそうでなくてもセックスによって制約されているといったような、ジェンダーとセックスのあいだの模倣関係を、暗に信じているものだ。構築物としてのジェンダーの位置は、セックスとは根本的に無関係であると理論づけてはじめて、ジェンダーは自由に浮遊する人工物となり、その結果、男や男性的なものがオスの身体を意味するのとまったく同様にたやすくメスの体を意味することもでき、また女や女性的なものがメスの身体と同様にたやすくオスの身体を意味することもできるようになるだろう。

生物学による生得的な性の決定論を回避するためにジェンダーという概念が持ち出された訳だけれど、もしジェンダーが男性的なものと女性的なものの二つである仮定するならば、それはジェンダーが生物学的なセックスの概念に引きずられていることを意味し、生物学によって制約されているということになる。それでは、当初の目的に合致しないので、「セックスとは根本的に無関係であると理論づけてはじめて」ジェンダー概念は本来の「自由に浮遊する人工物」としての地位を獲得する。

この部分の議論で注意しなければならないのは、バトラーは、セックスと根本的に無関係な「自由に浮遊する人工物」としてのジェンダーという概念を支持しているわけではないことだ(後にそのようなジェンダー観は批判される)。ジェンダーは生物学的な身体と根本的に分離した概念であることを要求する。しかし、多くの人はジェンダーという概念を想起したときに、それは男性ジェンダーと女性ジェンダーの二つだという発想を何らかの意味で持つのではないか。そしてまた、自らの身体と完全に分離させて性のことを考える人はこの世の中に存在するだろうか。バトラーはこの部分の記述によって、ジェンダーという概念は何かがおかしい、ということを読者に気づかせる。そしてこのジェンダーに対する違和感は、実は、人為的に操作できない自然な二つのセックスを想定していることから発生するものなのだ。

セックスとジェンダーの区別の否定

セックスの自然な事実のように見えているものは、じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作り上げられたものにすぎないのではないか。セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく、「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。そしてその結果として、セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる。

1.2.の議論は急速だ。ここで突然にセックスもまた社会的に構築された概念であること、セックスとジェンダーの区別が不要であることが示される。この議論は後々補強されてゆくわけだけれど、私のように、この劇的な展開を見て積年の疑問が晴れるようなスッキリしたものを感じる人もいれば、「そんな馬鹿な」と、トンデモ論のように感じる人もいるのではないだろうか。

セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈だと定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前‐言説的なもの」――つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面――として生産され、確立されていくのである。

文化の前に存在する自然な事実のように感じられる「男」と「女」の生物学的な二分法は、実は、ジェンダーによって生産され、自然な、疑いようのないものとして確立されているものだったということだ。

私は「ジェンダー」という言葉が嫌いだった

さて、以上1.2.の議論を見てきたけれど、ここで少し自分の話をしたい。私は「ジェンダー」という言葉が嫌いで、極力使用を避けていた。このブログでもほとんど用いていない。

私は言説には責任を持ちたいと思っていて、自分の中の実感としてはっきりと「ある」もの以外は語らないようにしている。知ったかぶりはしたくないということだ。そして「ジェンダー」という概念は私の中に「ない」ものだった。何かがおかしいと感じていた。しかしどこがおかしいのか言語化することはできなかった。

その違和感の正体がバトラーによって鮮やかに明らかになったわけだ。つまり、ジェンダーの、身体と完全に分離した性という、現実的に有り得ない奇妙な把握に対しての違和感だった。性別違和の問題を考える際にも、「性同一性障害」として、男女二元論的に身体をまったくの誤りであるかそうでないかとする考え方は批判され始めている。

しかし私が自力でこの違和感の正体を言語化できなかったのは、私が自然科学の考え方の信奉者であるために、「男」と「女」という生物学的なセックスの二分法に疑いを差し挟めなかったことによる。「言説以前の自然な男女二つのセックス」という把握を否定すれば、セックスも「男」と「女」というカテゴリーに必ずしも束縛されずに今まさに構築されているものとなり、身体の問題を性の意識から不当に排除する抽象的に歪んだ認識を改めることができる。