一連の「弱者男性論」言及から見えて来た「弱者男性」概念のコアとその将来への提言 ―フェミニズムとのコンフリクト―

クリッツァ―さんの「弱者男性論」に批判的に言及した記事を発端として、Twitterはてな匿名ダイアリー(通称「増田」)で「弱者男性」の議論が盛り上がっている。

クリッツァ―さんの記事では「キモくて金のないおっさん」や「かわいそうランキング」、「女性の上昇婚志向」というワードが言及されていることから、Twitterのアルファ弱者男性論客*1の議論を念頭に置いていると思われる。

その一方で、増田の弱者男性論エントリやそこについたブコメを読むと、いわゆる「あてがえ論」とは一緒にしないで欲しいとの見解も頻出しており、どうやらTwitterのアルファ論客による論調こそが「弱者男性論」であると結論づけたのではミスリードな部分があるようだ。

そのような問題意識の元、ただ対立を煽りたいだけの野次馬的言及を慎重に排しつつ、一連の増田とそこに付いたブコメを、当事者的言及と解釈できるものを重視して読み解いてみたところ、「弱者男性」という一見して定義不明瞭な印象を受ける用語について、コアと呼び得るようなコンセプトがあることが見えて来た。

「男性」というだけで「強者」扱いしないで欲しい

結論から言うと、フェミニズムは「男性」という属性についてまとめて「強者(マジョリティ)」として批判するけれど、男性が皆強者ではなく、弱者の男性もいると認めて欲しいというのがそのコアだと解釈した。

'弱者男性への救い'が何であるのか、具体的にどのような社会的状況が実現されれば、弱者男性は救われるのか、という点について意見を募りたい。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4700814602038291234/comment/akuwaruaku

弱者男性への救いとは、具体的に何か

「男性は皆全員強者だ」論を見たときには、「こんな惨めな人生でも強者あつかいか……」とは思ったんで、せめて強者として扱うのはやめてほしい。どうせ救われぬ人生だけど、救われなかったことくらいは認めてほしい

2021/04/06 02:20

「弱者男性への救い」について素朴な疑問を呈した増田に対して、はてなスターが多い順*2に上から2つのブコメは同じ趣旨の内容に読める。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4700835551288076226/comment/aobyoutann

『『「弱者男性は従来の社会運動で既に包摂されている」みたいな方向性に持っていきたいのかな - frothmouth のブックマーク / はてなブックマーク』へのコメント』へのコメント

基本的に男性一般を強者として殴らなければ"弱者"男性なんてわざわざ言う必要ないはずなんですよ。なぜなら頭のおかしい人以外は社会的弱者に男性は含まれないなどという差別的な思考はしないから

2021/04/07 22:34

また、別の増田についたブコメでよりダイレクトにそのコンセプトを述べているものもあった。「"弱者"男性」というのは男性というだけで強者と決めつけて批判するフェミニズムへのカウンターだと言うのだ。これはルーツに関するソース付きの議論ではないけれど「弱者」 + 「男性」という語構成はそういうことだと理解すると腑に落ちる。より広義に言うと、社会的マイノリティに寄り添う言葉は多く持つ一方で、個別の事情に関わらずマジョリティとされる男性には寄り添う言葉を持たないようないわゆる「リベラル」についての不信感がそのコアにあると読み取ることができるのだ。このように理解すれば、「弱者男性」という用語が非常に高い確率で「フェミ」や「リベラル」への批判とセットで用いられることへの納得感も出る。

ただ、漫画やアニメやゲーム等の二次元コンテンツに触れながら余生を生きていければ、それで良いなと言うのが正直な気持ちです。

しかし残念ながらそうした二次元コンテンツは昨今幾度も炎上を経験しており、時には好きな作品がその対象に成る事も有ります。

フェミニズムと「弱者男性」のコンフリクトの具体例としては、Twitterで度々炎上する二次元コンテンツへのフェミニズムからの批判が挙げられるだろう。

客観的な要件と思われるもの

上述の観点がコアコンセプトと思われるため、上の増田のように「結局「弱者男性」って誰なんだよ」と「弱者男性」の客観的定義を求めたくなるのは、実は「弱者男性」の本質ではないとも言える。その一方で、私がこれまで観測して来た議論に基づいて客観的要件と思われるものを挙げると

  • 経済的弱者であること
  • (経済的弱者であることと関連して)家庭を持てないこと
  • そのような状態を一定以上不幸に感じていること

これらの観点が重要と思われるけれど、個人差が大きくあり、「弱者男性」の具体的状態については上の範疇に留まらないと理解すべきだろう。家庭を持つことについては諦めている議論と諦めていない議論(その極端なものが「あてがえ論」)が両方とも弱者男性論として観測される点に注意が必要だ。

男性学は「弱者男性論」的関心をどう扱って来たか

フェミニズムとのコンフリクト

冒頭のクリッツァ―さんの記事では男性学が脱規範的議論に終始して*3弱者男性を具体的に救う議論をしていないことと、今後して行く必要があることが述べられているけれど、弱者男性論の本質が個別の弱者的状況よりもフェミニズムとのコンフリクトにあるとしたら、これは男性学が日本での発足当初から主要な問題意識として考えて来たテーマと言える(しかし、後からも述べるように、その前提が弱者男性論とは大きく異る)。

上野千鶴子さんが男性学について「フェミニズム以後の男性の自己省察であり、したがってフェミニズムの当の産物である」とした上で、「男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である」と定義しているように*4男性学はその発足からして「男性はフェミニズムとどう向き合うべきか」という問題意識を主要なテーマの一つとして来た。

女性の性被害やDV被害を告発する#MeToo運動が二〇一七年に起きたが、被害を訴える女性に対し、被害を矮小化・無化する二次加害、女性の運動家や政治家に対する中傷・脅迫的なメッセージを送りつけるジェンダートローリング(gender trolling)など、バックラッシュの再燃とも言える現状がある。それは何事もなく暮らしてきた、もしくはジェンダーとはまた別の理由で不遇な状況を生きてきた男性たちが、突如「加害者」「抑圧者」として引きずり出され、その際に生じた抵抗感や不安、恐怖といったネガティブな感情に対処しきれず、過剰な防衛として加害に転じてしまう動態を示しているのかもしれない。女性から申し立てられた際の男性の脆さが、そこには現出している。

尾崎俊也・西井開「とまどいを抱える」

最近の動向で言うと、メンズリブ団体の「ぼくらの非モテ研究会」を主催する西井さんとその友人の尾崎さんが「とまどい」という用語でフェミニズムの訴えに触れたときに男性に生じるコンフリクトに注目している。「何事もなく暮らしてきた、もしくはジェンダーとはまた別の理由で不遇な状況を生きてきた男性たちが、突如「加害者」「抑圧者」として引きずり出され」はかなり弱者男性論の文脈に近い言及と読めるだろう。ただし、上の引用部分を見ても分かるように、フェミニズム支持の価値観の元、弱者男性論的現象に対して批判的な視点で書かれているため、弱者男性論と注目するテーマに一致は見られても、前提とする価値観に決定的な対立があると言える。この価値観の対立は上の議論に限らず、男性学の議論全般にあてはまるものだ。

男性の強者性は一枚岩ではない

弱者男性論は男性すべてが「強者」ではないと訴えるけれど、男性学においても男性が一枚岩の強者でないことは、主にコンネル(Raewyn Connell)の「ヘゲモニックな(覇権的)男性性」という概念の応用として論じられて来た。

コンネルは「どんなときでもある一つの形式の男性性が他の男性性よりも文化的に優位にある」として、これをアントニオ・グラムシの議論に依拠して「ヘゲモニックな男性性」と名付ける。一方、「従属的な男性性」は「男性集団のなかでの支配―従属の特定のジェンダー関係」において最下層に位置づけられているものを指す。次に「共犯的な男性性」は「家父長制の最前線部隊になることなくその利益配当を受けるような形で構築される男性性」、つまりヘゲモニックな男性性を体現せずに家父長制の利益配当を受けるような男性性のあり方を指す。コンネルによれば、「(男性性の)ヘゲモニックなパターンを厳密に実践している男性の数は極めて少ない」にもかかわらず、多くの男性が「全体的な女性の従属から生まれる男性一般の特権」を受けている。そして、コンネルは「エスニック・マイノリティのような搾取あるいは抑圧された集団のなかで生み出される男性性」を「周縁化された男性性」と呼ぶ。この周縁化された男性性は「ヘゲモニックな男性性と多くの特徴を共有しているが、社会的に脱―権威化されている」点が異なる。

ただし、このコンネルの議論で言うと「弱者男性」は「周縁化された男性性」よりも「共犯的な男性性」に近く、「ヘゲモニックな男性性」とともに女性を従属させ男性特権を享受する層ということになると思うので、この理論に基づいて「弱者男性」に寄り添うような議論を展開することは難しい。

以上見て来たように、男性学は弱者男性論の関心と共通する対象を論じて来たけれど、その前提とするフェミニズム支持の価値観に弱者男性論との決定的な対立があるため、弱者男性論には活用しづらいと言えそうだ。

弱者男性論の今後への提言

以上は弱者男性論を取り巻く状況の整理で、ここからは私の見解を書きたい。政治・経済の観点による問題解決は重要と思われるけれど、私は詳しくないのでこの記事では触れない。

Twitterアルファ論客主導の弱者男性論からの脱却

クリッツァ―さんの記事内での「弱者男性論」のように、ただ「弱者男性論」と言ったときに現状で最も想起される可能性が高いのはTwitterのアルファ論客が語っているところの弱者男性論だろう。しかし、実際には弱者男性論への関心はそこに留まらないことが今回の一連の増田やブコメによって示唆された。

ブコメで自分の心情を整理して吐露したり、極端な意見には「弱者男性の代表みたいな態度してそんなことは書かないでくれ」と異議申し立てをしたりと、色々と頑張って建設的な話に持ってこうと頑張っているのだが、すぐに疲れてしまう。

でも、黙ってしまっては、人と人との対立を煽るだけの極端な言論だけが残ってしまうだろう。

それだけはどうにも嫌で……もう少し書こうかなと……もう少しだけ頑張ろうかなと、そう思う。

この増田のように「そうでないもの」を語ろうとする試みを私は支持したい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700910536080896130/comment/ueno_neco
そもそもの問題として、「弱者男性」や「キモくて金のないおっさん(KKO)」という用語にはあまりにも女性への人権侵害的な言説のイメージが強いので、ueno_necoさんの言うように「弱者男性とかKKOという言葉や概念は解体」し、この用語を敢えて使わずに自身の関心を正確に語る試みがなされても良いと思う。

また、はてなブックマークブコメはてブユーザー以外からは参照しづらく、短文では論点が不明瞭なので、往年のはてな非モテ論壇の盛り上がりの再来は望めないとしても、もう少しブログ等でまとまった文章で論じる人が増えても良い気がする。

コミュニティの可能性

弱者男性同士の遊びのコミュニティに参加しているという話が肯定的に受け止められているのは希望がある。

メンズリブという選択肢

コミュニティの選択肢としてメンズリブもある。

私が主催しているメンズリブ団体「うちゅうリブ」の活動内容は上の記事にまとめてあるけれど、活動を行う中で、フェミニズムの男性批判に対するとまどいが話題になることも多い印象だ。ただし、メンズリブフェミニズムベースの活動という趣旨が強いため、決してフェミニズム的価値観を押し付けるようなことはしないけれど、フェミニズムがどうしようもなく嫌いという方には合わない場になってしまっているかとは思う。

まとめ

弱者男性論は非常に現代的な関心で、既存の男性学メンズリブでは、主にフェミニズムに対する価値観の相違を原因としてその問題意識に十分に応えることができない可能性がある。弱者男性論にはTwitterの議論でイメージされるような極端な反動的アンチフェミ言説に留まらない関心が含まれていることが示唆されるため、今後の展開を注視したい。

2021/05/25追記

この記事を投稿後も弱者男性論言説の観測を継続している。

この記事の段階では気づいていなかった問題意識を踏まえて、上のポッドキャスト*5で整理して話してみた。こちらの内容も記事化するのが望ましいけれど、複雑な論点を含む話題のため、ただちに文章化するのは難しそうだ。

簡単に要点だけ書くと、この記事では「フェミニズムとのコンフリクト」が弱者男性論のコアだとしたけれど、現在では「男性の苦境についても「リベラル」がマイノリティを扱うのと同様に配慮して語って欲しい」がそのコアだと認識している。ただし前者の観点が存在しないという訳でもなく、問題意識に個人差が大きいため、弱者男性論を統一的に理解するのはそもそも難しいのかも知れない。

*1:白饅頭すもも小山晃弘島本など。

*2:2021/4/8現在。

*3:性愛文脈での脱規範的議論は論文レベルの「男性学」ではなく、田中さんの『男がつらいよ』のようなカジュアルなテキストに見られるものである点には注意したい。

*4:上野千鶴子「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」(『日本のフェミニズム 別冊 男性学』所収)

*5:ツイキャスの録音をアップしたもの。