パートナーのヒステリーへの対処法

「僕が後から帰宅すると4割くらいの確率でヒステリを起こす」ってのも、感覚としてよく理解できる。ここも俺の嫁はタイプが違っていて、俺の帰宅が遅いことを理由にキレるってことはないんだけど、「これをやると4割ぐらいの確率で大騒ぎになる」っていうパターンみたいなのはあるんだよね。

たとえばうちの場合、嫁が帰宅した瞬間に俺がリビングにいたりすると高確率で不機嫌になって、色々なことにケチをつけ始めてだんだんボルテージが上がっていき、そのまま放置すると大爆発まで行ってしまう。疲れて帰ってきた後は1人になりたいみたいだ。だから嫁が帰ってくるまでにやることはすべて終わらせて、寝てしまうか、自分の部屋に引きこもることが必要だ。

俺の感覚からすると、疲れてるのにキレるってのはとても不思議で、キレたら余計エネルギー使うじゃねーかと思うんだけど、まぁそういうものらしい。

私も、仕事で帰ってくるのが遅くなるとキレる彼女に悩まされていたので非常に共感できる文章だった。ブラックな企業に就職して転職もせず、ストレスフルな労働をしているツケを他人である私が引き受けなければならないというのは実に理不尽な気持ちだった。

で、元増田のブコメをみていたら、夫婦喧嘩していると勘違いしているものとか、「離婚しろよ」みたいな声がけっこうあって、「あー全然分かってないコメントだなぁ」って思った。女がヒステリーを起こすのって、同居してる男からみれば病気とか天災みたいなもんなんだよ。だから「揉めてる」って意識は全くないんだよね。

なんか自然災害のようなもので家の中が荒れていて、とても憂鬱なんだけど、べつに夫婦喧嘩しているわけではないからこっちに「怒り」みたいなものも無いわけ。当然、子供に愚痴を吹き込んだりもしない。「仲の悪い夫婦って子どもにも悪影響あると思うよ」というブコメがあったけど、あるとすれば「母親が感情的に不安定であること」の悪影響であって、仲が悪いのとは全然違うんだ。

ヒス発動中に嫁が吐く暴言にムカつくことは確かにあるんだけど、だからって嫁と戦おうとは思わないんだよね。とにかく、「早くこの嵐が過ぎ去って欲しい」っていう願望と、「我慢するしかない」っていう憂鬱だけがある状態。これ、分かんない人にはほんとイメージできないだろうけど……。

この辺りの心理描写もまんまそうだったので良く分かる。この問題を実際に体験したことが無い立場からすると、「怒っている理由を親身に聞いてあげて慰めれば良い」とか「怒っていないときに怒るのをやめるように話し合えば良い」とか安易に考えがちなのだけれど、これは「天災」なので、人の力で鎮められるものではないし、また、怒っているときと怒っていないときではほとんど別人格とでも呼ぶべき隔たりがあるので、怒っていないときにわざわざ怒っているときの話をしようという気持ちにもなれない。また、恐怖による条件付けに裏づけられた怒る/怒られるという関係性が出来上がってしまった時点でもはやその関係は「対等」ではなく、「怒られる側」が「怒る側」に自分の気持ちを自由に伝えられる機会が限定されてしまうということもある。

ただ、この方はまだパートナーのヒステリーに悩まされていて、私の彼女は怒らなくなったので今の状況は異なる。異なるのだけれど、何が違うのかについては正直「運」としか言いようがないと思う。この問題に明確な解決策は無い。

この前の記事では、「キレている人は放置して物理的に距離をとれば良い」ということを書いたけれど、「だから嫁が帰ってくるまでにやることはすべて終わらせて、寝てしまうか、自分の部屋に引きこもることが必要だ」という一文から分かるように放置して自室に引きこもるというようなことは冒頭リンク先の方も既に実践している。

「キレられる側」の対応に大きな違いはないけれど、私のパートナーはキレるのをやめて、彼のパートナーはキレるのをやめていない。つまりこれは「キレる側」の対処の問題なのだ。

最近田房さんの『キレる私をやめたい』を読んだ。夫にキレまくっていた田房さんが自身の過去のトラウマと向き合い、キレるのをやめるまでを描いた漫画だ。

このように、「キレる側」が自身の攻撃的なコミュニケーションスタイルの愚を悟り、パートナーに穏やかに接せられるように尽力する以外に根本的な解決策はない。

「キレられる側」にできること

無いのだけれど、敢えて「キレられる側」にできることをまとめると、以下の2つになる。

  1. 「キレられる」ことを肯定的に評価しない。「キレる側」が100%悪いという立場を維持する。
  2. 関係解消の可能性を担保する。

まず、「キレる側」が100%悪いという原則を確認することは大事だ。モラハラ被害者の典型的な思考パターンとして、「相手は自分のことを思ってくれているから怒っているんだ」とか「自分にも落度があるし相手が怒るのも当然だ」などと行為の正当化を意識的或は無意識的に行い過酷な状況に適応を図るということがあるけれど、これはまずい。たとえ「キレられる側」に何らかの落度があるにしても、対話を放棄してキレるような行為には一切の正当性が無いということをしっかりと確認するべきだ。キレるパートナーのことは許してもキレる行為そのものは絶対に許すべきではない。

次に、関係性をいつでも解消できる、という退路の確保はやはり重要だ。私は親に甘やかされて育ったので、人に怒られるということが何よりも嫌いで、これ以上キレられるようだったら婚約を破棄して実家に帰る心積もりでいたので、その危機を彼女が察知して改善に至ったということはあるかも知れない。ただ、冒頭の記事の方のように結婚して子供までいるとなるとそう簡単にもいかないだろう。

まあそんなこんなで、関係は続いていくんだ。客観的にみれば、離婚するほうが合理的かもしれない。でもヒステリックな嫁の相手をしている男にとっては、それは離婚の理由になるようなものではなく、むしろ己の人生の制約条件として背負っていくべきものだという意識になっているということを、理解してもらいたい。

ラスト付近のこの言葉は重い。これくらいの忍耐が必要になる局面というのは人生にはあるのかも知れないなと、最近は思うこともある。

はてなブログのオリジナルテーマJuneを公開しました!

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June - テーマ ストア

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このブログが現在採用しているテーマです。広めの行間が指定してあり、一行の文字数も読みやすくなるように調整してあるので、ゴリゴリテキストを書きたい方に最適なテーマになっていると思います。本文にやや薄めのグレー、記事タイトルに爽やかなブルーを指定したカラーリングもポイントです。テーマストアの右端にある「プレビューしてインストール」ボタンを押せば簡単に適用できるのでぜひ試してみてください。

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「妻がキレるのが怖い」問題について

NHKクローズアップ現代で「妻が夫にキレるわけ」という特集があったらしい。

この問題は先日書いたように私も今(未婚者ではあるけれども)当事者として直面していることで、最近考察を深めているので記事を書きたいと思った。

2つの問題点

「妻がキレるのが怖い」事象には2つの問題点があると感じている。

まずは、妻がキレるレベルで夫の家事・育児貢献度が低いということ。これは分かりやすい問題点で、男性も家事への参加意識を持ち、家事スキルの向上に謙虚に取り組む以外にないと思う。

もう1つは、パートナーにキレて怯えさせる妻の問題。上記リンク先に紹介されている「書店や電気店などを4時間ほどぶらつき、妻が寝静まるのを待つ」という夫の習慣は、利害関係を考慮した合理的判断ではなく、身体が恐怖に支配されて勝手にそう動いているのだろう。恐怖は人の心だけではなく身体を直接支配し、自らの意志で自らの身体を動かすことさえ困難にさせる。いじめ、毒親、DV等、あらゆる暴力的関係性に「恐怖による身体の支配」は絡んでいて、これは最も原始的なモラハラ的コミュニケーションの型であり、どのような理由があったとしても許容されるものではない。

いったん距離をおくという解決策

私も4月には家事上のミスを彼女に怒られるということがしばしばあって、恐怖に身体を支配されかけていた。

実際私の家事スキルは貧弱なので、最初のうちは怒られるのも仕方がないと我慢していたのだけれど、どうも自分の家事スキルの低さだけが問題ではないということに気づき始める。というのも、彼女が仕事で帰るのが遅くなったときにキレやすいということが分かってきたからだ。仕事で遅く帰ってくると普段は怒らないような些細なことで怒り出して、立て続けに次々とミスを指摘して寝るまでキレ続けるというパターンがあることに気づいた。これはさすがに不当だと思った。仕事の不快感を他人に不快感を与えることで解消するというのはどう考えても非生産的で何ら事態の解決に向かっていないからだ。

そこで彼女に、指摘された問題点については改善するよう努力しているけれど、怒られても私は変わらないという趣旨のことを伝えて、彼女が怒り出したときは、黙って自室に入って扉を閉めて放っておくことにした。怒っている人を放置するのはどうなんだ、ますます怒り出すんじゃないかという懸念が最初はあったけれど、結果的に彼女は怒り過ぎたことを反省してくれて、徐々に怒る回数を減らすように努めてくれた(彼女の方としても人への当りが強い気性は何とかしたいと日頃感じていたようだ)ので、今は平和に暮らせている。

私は恵まれてる方かもしれませんね。
わりと夫は、私が一方的にちょっと攻撃性が高まっちゃう時に、それをいなしたり、かわしたりするのがとても上手です。
私が何か言いたいなって時に、彼はさっといなくなったりするんですね。
さっといなくなって、しばらくすると戻ってきて、疲れていると思うからコーヒーいれたよって言ったりするんですね。

この解決策は奇しくも冒頭リンク先の中野さんのパートナーのコミュニケーション手法に近い。

ムーチョさんの関連記事でも、怒っているときにパートナーにカフェに追い出されたら気持ちが落ち着いたというエピソードが紹介されている。怒っている人のことは下手になだめようとせずに物理的に接触をいったん断つのが正解なのかもしれない。

「思いやり」があるかないか

とは言ってもこれは彼女が自発的に怒るのをやめようと努力してくれなかったら解決しなかった問題だ。やはり最終的にはパートナーへの思いやりがあるかないかの問題になるのだと思う。家事の重役を一方的に課すというのも、恐怖で行動を支配しようとするのも、パートナーを思いやる心があれば出来ることではない。

お互いに思いやりを持てなくなったら関係を解消することも視野に入れて、地道にコミュニケーションを重ねてゆくしかないという印象だ。

肌を触れ合せるセックスの気持ち良さと日常のコミュニケーションとしてのスキンシップ

前回に続いて、『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』の感想をもう少し書きたい。

対談のラスト付近で、湯山さんが次のように結論している。

セックスしたほうが、人生のまっとう感において充実する。挿入ありきのセックスでなくても添い寝でもいい。体温だよね。皮膚の触れ合いから得られる信頼感はどんな精神薬よりも凄い。人生戦略としてなくてはならないもの。

「皮膚の触れ合いから得られる信頼感はどんな精神薬よりも凄い。人生戦略としてなくてはならないもの」というのは、私もそう思う。肌の触れ合いは気持ちいいし、リラックス効果がある。(ハグなどの)スキンシップを使わないで言葉のコミュニケーションだけで共同生活を上手くやっていくのはなかなか大変だろうなという印象がある。

スキンシップの回路が繋がるまでの障壁

ただ、日本にはスキンシップの威力を理解する回路が繋がるまでに立ち塞がる障壁があって、まず、家庭によって事情が異なるだろうけれど、スキンシップ文化が欧米ほど普及していない。その結果、

日本の文化の中では、母親のベタベタがあまりに強いけれど、考えてみれば、その後のスキンシップがずっとなくて、その後がいきなりセックスということになっちゃっているんですよ。異性とのセックス以外にスキンシップするチャンスがないんだよね。

湯山さんがこう述べるような、日常のコミュニケーションとしてのスキンシップがスッポリと抜け落ちて突然セックスに至るという事態が発生してしまう。しかし、そのセックスでいい感じのスキンシップに辿り着けるかというのも定かなことではない。その一因として、セックスのイメージを形作る上で重要な意味を持つと思われるポルノにおいてスキンシップが重視されていないことがある。

二村さんは現代のAVの特徴について次のように語る。

現代のAVは、お客さんのオナニーの邪魔になるものを徹底的に排除する方向に進化している。それをつきつめると男優に個性はいらない、心は込めずにチンポだけ勃てておけ、女優は男優のほうを見ずにずっとカメラ目線でセックスしろということになる。それで不自然に見えないような、男優の手と下半身だけを使って、ユーザーが女優とセックスしているような気分になれるカメラワークも研究開発されています。

男優が上体を起こして挿入するいわゆる「AV正常位」に象徴されるように、一般的なポルノでは視覚効果を最優先するために男優と女優がぴったりと肌を接触させるような描写を徹底的に排除する傾向がある。

http://www.gentosha.jp/articles/-/5124

独身時代、私はベッドの上で「男がメインで前戯→挿入→射精という定型じゃなくていいんだ」と提案してました。必ずしも射精は必要じゃないし、ひたすらイチャイチャして愛撫しあっていると「こんなの初めて…!」と感激する男子が多かった。彼らも慈しみ合うようなセックスをしたいんだと思います。

以前アルテイシアさんが、彼女に導かれてポルノ的セックスから脱した男性の喜びの声を紹介していた。「こんなの初めて…!」という感想に率直に表れているように、セックスにおいて皮膚感覚を大切にするという基本に辿り着くのが現代の日本ではまず容易なことではない。

スキンシップの威力と「セックスは別に必須ではないよね?」という感覚

一度スキンシップの威力を体感してしまうと、今度は「別にセックスまでしなくても良くない?」という感覚も生まれてくる。コミュニケーション手段として見ると、セックスが通常のスキンシップと比べて特別に優れている訳ではないし、セックスは真面目にやると全身の筋肉を使ってかなり疲れるのでそれなりに面倒。結局のところ、

「たかがセックス」というのは、大人は当たり前じゃないかという気がする。貴重品として、「やるんだったら、楽しい境地はあるよ」という程度が正しい。

湯山さんがこう述べるようなラインが妥当なのではという気もする。色々なコミュニケーションの手段を揃えた上で、それぞれの関係性にとって必要なものを必要なだけ使えれば良いのかなという感じだ。

セックスにおける「男性役割」のつまらなさ ―私自身のセックスの悩みを通じて―

やはりセックスにおける「男性役割」はつまらないし気持ち良くない――『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』を読んでそう思った。

この本で湯山玲子さんはオールドタイプな性規範がセックスにもたらす影響力を次のように分析している。

襲う性、オス性の魅力は、文化的に女性に相当刷り込まれているので、ほとんどの女性はセックス時のプレイ的な男の暴力性は嫌いではない。でも、それは都合がいい暴力性で、「オマエが愛おしくて、欲しくて辛抱タマラン」という愛という名のスウィートな暴力。その暴力に油を注ぐべく、生まれたての子鹿のように震えて、おののく、という女性側の演技も含めてね。問題は暴力装置による男女の支配・被支配の関係が、もう血肉化されているから、そうしたポルノでオナニーしてきて私たちに、果たしてそうじゃない第三の道があるのかという話。

そして湯山さんは、

男たちが従来の発情システムと、現実の感情にズレが生じていることを感じ始めている。

と、現代の男性たちは「従来の発情システム」に違和感があるのではないか、と指摘する。

更に湯山さんは、BLの魅力は攻めにも受けにも感情移入できることだとした上で、BLと比べてレディコミ(女性向けのヘテロエロ漫画)にはある「不自由」があると語る。

レディコミはBLに比べて、一点だけ不自由なところがあるんですよ。ヤラれる女のほうにはもちろん感情移入はできるんだけど、どうもヤル側の男のほうにそれがしにくい。女をヒイヒイさせるという役割のときに、「えっ、この女には私の心のチンコは勃たないわな」とちょっとブレーキが入っちゃう。ヘテロなゆえに、受けが女だと例の女同士の細かいセンサーが働いて「それは違う」となるんですよ。加えて、セックスは受け身のほうが絶対快感が大きいので、レディコミの場合、感情シンクロが簡単に女のほうに行ってしまう。おわかりかな?

分かります!と大きな声で言いたくなる。さらっと言っているけれど「セックスは受け身のほうが絶対快感が大きいので」これ。湯山さんはセックスにおける男性役割の快楽の少なさを見抜いているのだと思う。

セックスにおける男女の非対称性 ―私のセックスの悩み―

この湯山さんの一連の発言は、今の私のセックスのちょっとした悩みとシンクロしていて、というのも私のパートナーは攻めるのが得意で、凄まじい快楽を教えてくれたのだけれど、基本的には女の子ムードを楽しみたいようで、私はセックスにおいて男性役割を演じなければならない。

例えば、セックスが始まるときに押し倒すのは必ず私の方なのだけれど、これはもちろん「性欲に任せて」押し倒している訳ではない。彼女がセックスしたがっている様子をその日の空気で察して、いちゃいちゃしつついい感じに仕上がって来た段階で「如何にも性欲を抑えられなくなったような体で」押し倒すのだ。

やはり好きな人の喜んでくれることをしたいという気持ちはある。そうすると、「如何にも性欲に支配されて激しく身体を求めている」ような動きに彼女が喜ぶらしいということがどんどん分かってくるのだ。これは冒頭に引用した湯山さんの語る女性に内面化された価値観とまさに一致していると思う。そして私は「従来の発情システムと、現実の感情にズレが生じていることを感じ始めている」。いつか彼女がやる気になって私の身体を攻めてくれることに淡い期待を抱きながら彼女の身体を激しく求めるという「型」を実行しているのだ。

これは話し合って攻める割合を50/50にして貰えば良いということではない。彼女が自発的に察してやってくれることに意味がある。受けの快楽は贅沢なもので、ここに妥協は許されない。

まあ一応男性役割にも魅力がまったくない訳ではないのだけれど、それはある種の職人的な満足感であって、快楽の強度からするとかなり物足りないと思う。

「男が受け身」というより、「セックスはリバーシブルなのが自然」になればいいんですが。 男はこう、 女はこうと決まっているほうが不自然。

二村ヒトシさんがこう語るような理想を突き詰めて、攻めの時間配分が完全に平等なセックスとか、その日その日で役割を入れ替えるセックスとかが実現できれば楽しいと思うけれど、なかなか現実は思い通りにはいかなくて、やっぱりセックスの魅力と難しさは「人とするものだ」ということろこに集約しているのだと思う。

会社の仕事はつまらないという当たり前の事実の確認

将来の職業のことは、やはり切実だった。

私は森鴎外が大好きだが、彼は「仕事」を必ず「為事しごと」と書く。「仕える事」ではなく、「る事」と書くのである。私はこの発想を気に入っていた。人間は、一生の間に様々な「事をる」。寝て起きて、食事を摂って、本を読んだり、映画を見たり、デートをしたり「為る」。職業というのは、何であれ、その色々な「為る事」の一つに過ぎないが、ただ、一日二十四時間、死ぬまでの何十年だかで、最も長い時間を費やす事であるには違いない。だからこそ、自分の本性とマッチしたものでなければ、耐えられないはずだ。

「職業というのは……一日二十四時間、死ぬまでの何十年だかで、最も長い時間を費やす事であるには違いない。だからこそ、自分の本性とマッチしたものでなければ、耐えられないはずだ」というのは私も思ってきたことで、だからこそ「やりがいのある仕事」をしたいと思っていたのだけれど、結局医師にも研究者にもなれずに会社員になるしかなかった。とは言っても、平野啓一郎みたいな非会社員の小説家が言っていることは怪しいもので、世間に溢れている「会社の仕事=つまらない」的なイメージは本当にそうなのだろうか、面白みを見つける工夫が欠けているだけでは、という気持ちもあった。

結果としては、一か月会社員をやってみて、会社の仕事はつまらない、というありふれた常識を確認することになった。

勤務先の会社は、主力の自社製品(企業向けのクラウドシステム)一本で利益を挙げている小規模なIT企業だ。研修では、Excelで書かれた設定資料を読んで、手動でシステムに値を打ち込んで動作テストをしている。非常に単調な作業でつまらない。小さな会社なので、自分がこのままキャリアを進めるとどういう仕事が出来るようになるかはサクッと見通せるのだけれど、この手打ちのテスト業務に加えて、顧客の要件をヒアリングすることと、要件を反映する為にシステムのカスタマイズ設定をExcelで書く*1ことと、その設定を日本語に起こした設定資料をExcelで書くことが出来るようになる。基本的にはこれだけだと思う。Excelに始まりExcelに終わるという感じだ。

開発に回れれば面白い仕事が出来るかなと思い、プログラミングの勉強をしているのだけれど、開発はガチな少数精鋭で固められているので、未経験文系の自分に入り込める余地は無いような気もする。

仕事がつまらないこと以外には特に不満はなく、働きやすい会社だと思うのだけれど、このつまらなさは何とかしないとなと思っている。今は他の選択肢が皆無なので、この場所で出来ることをしつつ、将来の転職も視野に入れて他の選択肢をまずは一つ作る必要があると感じている。

*1:社内の開発者が作成したVBAで動く仕組みによって、Excelの設定をシステムのDBレコードに反映できる。

「言葉で伝える」ことの難しさと共感性の効力 ―人と共に一か月暮らして―

彼女とは言いたいことを言い合える関係を築けていたし、事前に不満は溜め込まずすぐに伝えることを念入りに確認し合ったので、共同生活はどうにでもなるだろうと舐めてかかっていたのだけれど、そんなことはまったくなかった。

一番大変だったのは彼女が仕事から疲れて帰ってくると私の家事上のミス(帰宅後の内鍵のかけ忘れ、カーテンの閉め忘れなど)について激怒し始めることだった。料理をして洗濯物をたたんで、それでも何か不手際があると怒られる。慣れない家事でミスをゼロにするように気を配るのは大変なストレスで、一時期は神経が衰弱し切っていた。

理想を言えば「家事上のミスについては改善しようと努力しているけれど、自分は今までほとんど家事をしてこなかった人間なのでどうしても最初のうちはミスが生じてしまうし、一々恫喝されていたのでは恐怖で委縮して出来ることも出来なくなってしまう。冷静に問題点を指摘して欲しい」という趣旨のことをちゃんと伝えれば良かったのだけれど、彼女の激務による疲労(彼女は接客業で、平日の不定休と他店舗出張が出鱈目に入り乱れるシフトかつサービス残業は当り前という環境で働いている)で余裕を失っている様子を見ると、言葉を切り出すことが躊躇われた。

結果、私は露骨に衰弱した様子で溜息をついてみせるという「察してちゃん」的な態度に出ざるを得なかった。コミュニケーション論的には「察してちゃん」は事態の解決に向かわない最悪の手段で、私自身恐怖に支配されて「察してちゃん」になっている自分はもう駄目だと思ったので、「やはり自分には結婚とか無理だった。婚約破棄して関東の実家に帰ろう」みたいに破局的な発想に走りかけていたのだけれど、廃人のようになっている私を見て彼女は怒り過ぎてしまったことを反省してくれて、今はマイルドな言い方を心がけてくれているので、二人の楽しい時間も戻って来つつある。

頭の中でコミュニケーション論を考えると、間違った内心の推量が深刻なすれ違いを呼ぶ可能性があるため、想像力とか共感性に頼らずにちゃんと言葉で伝えた方が良い、となるのだけれど、今回は彼女が私に対して共感力(察する能力)を発揮してくれたことに救われた気がする。

コミュニケーションは理想通りにはいかない。言葉も感性も使えるものはすべて使って乗り切るしかないという印象だ。