「言葉で伝える」ことの難しさと共感性の効力 ―人と共に一か月暮らして―

彼女とは言いたいことを言い合える関係を築けていたし、事前に不満は溜め込まずすぐに伝えることを念入りに確認し合ったので、共同生活はどうにでもなるだろうと舐めてかかっていたのだけれど、そんなことはまったくなかった。

一番大変だったのは彼女が仕事から疲れて帰ってくると私の家事上のミス(帰宅後の内鍵のかけ忘れ、カーテンの閉め忘れなど)について激怒し始めることだった。料理をして洗濯物をたたんで、それでも何か不手際があると怒られる。慣れない家事でミスをゼロにするように気を配るのは大変なストレスで、一時期は神経が衰弱し切っていた。

理想を言えば「家事上のミスについては改善しようと努力しているけれど、自分は今までほとんど家事をしてこなかった人間なのでどうしても最初のうちはミスが生じてしまうし、一々恫喝されていたのでは恐怖で委縮して出来ることも出来なくなってしまう。冷静に問題点を指摘して欲しい」という趣旨のことをちゃんと伝えれば良かったのだけれど、彼女の激務による疲労(彼女は接客業で、平日の不定休と他店舗出張が出鱈目に入り乱れるシフトかつサービス残業は当り前という環境で働いている)で余裕を失っている様子を見ると、言葉を切り出すことが躊躇われた。

結果、私は露骨に衰弱した様子で溜息をついてみせるという「察してちゃん」的な態度に出ざるを得なかった。コミュニケーション論的には「察してちゃん」は事態の解決に向かわない最悪の手段で、私自身恐怖に支配されて「察してちゃん」になっている自分はもう駄目だと思ったので、「やはり自分には結婚とか無理だった。婚約破棄して関東の実家に帰ろう」みたいに破局的な発想に走りかけていたのだけれど、廃人のようになっている私を見て彼女は怒り過ぎてしまったことを反省してくれて、今はマイルドな言い方を心がけてくれているので、二人の楽しい時間も戻って来つつある。

頭の中でコミュニケーション論を考えると、間違った内心の推量が深刻なすれ違いを呼ぶ可能性があるため、想像力とか共感性に頼らずにちゃんと言葉で伝えた方が良い、となるのだけれど、今回は彼女が私に対して共感力(察する能力)を発揮してくれたことに救われた気がする。

コミュニケーションは理想通りにはいかない。言葉も感性も使えるものはすべて使って乗り切るしかないという印象だ。