コミュニケーションがすごく楽になった話

昔の私は人間関係やコミュニケーションの問題で苦労することが多かったのだけれど、気がつけばそういうことが綺麗になくなっていた。せっかくなので何が改善されたのか整理してみたい。

何が苦手だったか

私のコミュ力は全般的に低かったのだけれど、特に「中高のクラスメート」や「大学の同じ専攻の同期」みたいな距離感の人間関係が圧倒的に苦手で、深刻に孤立する機会も多かった。私はこの春に大学卒業、就職という節目を迎えたので、これまで通りであれば「会社の同僚」との付き合い方に大いに苦労するはずだったけれど、今回は上手くいっている。何が変わったか簡潔にまとめると以下の3つの観点になると思う。

当たり前のことができるようになった

朝、同期の女性と電車の時間が同じなので一歩先を歩いている姿を見かけることが多い。こういうとき、今の私は「○○さん」と名前を呼んで普通に話しかけることができるのだけれど、昔の私であれば過剰な自意識から声をかけることができず、わざと歩くペースを落として距離をとったり、或は電車の時間そのものを変えてしまったかも知れない。こういうことをしてしまうと、その場の会話機会がキャンセルされてしまうというだけではなく、不審な挙動を相手に悟られて深刻な溝が生じてしまう可能性もある。

人に自分から話しかけるとか、目を見て話すとか、挨拶をするとか、そういう当たり前のことが最近の私はできるようになっている。

できないことはできないと判断できるようになった

一方で、できないことはできないと判断して無理しないようにもなった。人の輪ができているときに会話の主導権を握ったりとか、コミュニケーションに消極的(受動的)な人に話題を振って上手くサポートするとか、相手の立場を察して適切な配慮をするとか、そういう上級コミュニケーションについては基本的に私はできないので得意な人に任せるようにしている。できないことに執着してしまうとそこに自意識の葛藤が生じるので、今後の成長の可能性に期待しつつも現時点でできないことをできないと適切に判断することは大事だと思う。

人と親密になることへの切迫感がなくなった

昔の私は「友達が一人もいないのはヤバい」とか「集団から浮かないように誰かと仲良くならなければ」とか思っていたのだけれど、今はそういうことはない。仲良くならなければ、友達を作らなければ、恋人を作らなければ、というのは恐るべき呪縛だ。そもそも私がクラスメート的な関係性が苦手だったのも、「何でも話せる友人」と「分かり合えないその他大勢の他者」という二分法的把握によるものだった。「親密になれた」とか「分かり合えた」というのは大部分幻想の自己投影によるもので、幻想は決して自分とは異なる他者の上で十全に実現されないので、人を支配しコントロールしたいという欲求に対して危うい状態になる。安定して人とコミュニケーションするためには、自他の区別をしっかりと立てて適切な距離を保つ必要があるだろう。

まとめ

そういう訳で今の私は人とのコミュニケーションに苦しみを感じていない。ただ、3.についてはまだ改善の余地があると思っていて、というのも、自他の区別をしっかりとさせて人間関係が安定したのは良いとして、人と人が分かり合うということはすべて幻想だというのもやはり極端な物の見方であるように感じられるからだ。今の私は人と親密になることを怖れている。この怖れを克服できたとき、私のコミュニケーションの問題は真に解決されることになるだろう。