シーライオニングの主体がアシカなのはマイノリティへの迫害ではという疑念についての原作者見解を読む

「シーライオニング」というのは以前からそれなりの頻度で目にする用語ではあったけれど、元ネタ漫画"The Terrible Sea Lion"の翻訳ツイートが拡散されたことで最近また大きく話題になった。

アシカの扱いの不可解さ

元ネタ漫画を読んで、なかなか痛快でユーモラスな風刺と感じつつも、アシカが理不尽な攻撃を受けているのでは?という印象が若干あるのが気になった。

これアレじゃないんでしょうか、noteのみなさんにどこまで伝わるのかあれなんですが、ツイッターでいうところのスルメロック先生的なあれというか、むしろそうした社会運動を嫌悪する人たちに寄った漫画に見えるんですが。

言うなれば、僕はこの漫画を読んだ時に、そこに「マジョリティ(人間かつ貴族)がマイノリティ(言葉を発するアシカ)に対し嫌悪感を表明し、しかもそのことに一切反省すらしない」という描写を受け取ったのです。

まず、そもそもなぜアシカがやってることがリベラルやラディカルにとっては擁護されるべきことなのか。それは、アシカのやっていることが、まさしくリベラルやラディカルが理想とする「非暴力直接行動」だからです。

この疑念により踏み込んで、漫画の内容は非リベラル的という観点で批判するのが上のCDBさんとあままこさんの記事だ。

しかしこれはこれで何か極端なこじつけのようなものを感じてしまう部分もある。確かに反権力の立場の人々はときにマジョリティにとって手痛く感じるような、敢えて悪い言い方をすると「面倒臭い」主張・運動を展開することがある。しかし、それはこの漫画のアシカのようなスタイルだろうかと言えば、そういう印象はまったくない。このアシカには切実性がなく、非当事者的で、より端的に言うとTwitterにいるような詭弁的話法を得意とするネット論客の姿そのままで、これを反権力側の「非暴力直接行動」になぞらえるのは解釈上あまりにも無理があるように思われるのだ。

しかしそうなるとますますこの漫画の解釈が分からなくなって来る。多重な読みを許容して深い作りになるということはあるけれど、そもそもこの漫画のタイトルが"The Terrible Sea Lion"であることを鑑みても今回はそれが不可解なノイズになっているようにしか思えないのだ。

作者の見解

そんな中、原作ページにあるリンクを追ってみたらこの漫画について、2014年の発表時点で似たような批判が起きていたことと、作者のDavid Malkiがその批判に対して明確にコメントしていることを知った。

Malkiは、漫画でのアシカの扱いが人種等の属性への偏見に類似するという批判があることを示唆した上で、次のように語る(翻訳は筆者によるもの)。

But often, in satire such as this, elements are employed to stand in for other, different objects or concepts. Using animals for this purpose has the effect of allowing the point (which usually is about behavior) to stand unencumbered by the connotations that might be suggested if a person is portrayed in that role — because all people are members of some social group or other, even if said group identity is not germane to the point being made.

しかししばしば、このような風刺では、要素はその他の異なる対象やコンセプトの代理として用いられる。このような目的で動物を使うことは、そのような役割で人間が描かれた場合に示唆され得る意味合いに妨げられることなく、(たいていは態度・振る舞いについての)話の要点を際立たせる効果を持つ ― 何故ならすべての人間は何らかの社会的集団のメンバーであり、たとえ集団的アイデンティティは今回の話の要点とは無縁だと言ったとしてもそれはそういうものだからだ。

Such is the case with this comic. The sea lion character is not meant to represent actual sea lions, or any actual animal. It is meant as a metaphorical stand-in for human beings that display certain behaviors. Since behaviors are the result of choice, I would assert that the woman’s objection to sea lions — which, if the metaphor is understood, is read as actually an objection to human beings who exhibit certain behaviors — is not analogous to a prejudice based on race, species, or other immutable characteristics.

それはこの漫画にもあてはまる。アシカのキャラクターは現実のアシカやその他の現実の動物を表すことを意図しない。それは特定の振る舞いをする人間の比喩的な代理を意図している。それ故一連の振る舞いは選択の結果であり、女性のアシカへの抗議は ― この比喩が実際には特定の振る舞いをする人間への抗議であると理解され、読まれるならば ― 人種や種族やその他の変更できない性質に基づく偏見と類似するようなものではないと私は主張したい。

つまり、発表当時もCDBさんやあままこさんのような読まれ方はしたけれど、Malkiとしてはあくまでも話の要点は人間の振る舞いへの風刺であり、アシカであることは人間の行為にフォーカスするための風刺漫画上の技法に過ぎないと言うのだ。

ネットの新概念「シーライオニング」の元ネタ漫画は本当にリベラルな文脈で描かれているのか?という疑念|CDBの七紙草子|note

このマンガ、アシカ的な行為(過剰な粘着)にフォーカスするために女性の発言を意味不明な暴論にまで抽象化してるのであって、女性の発言の意味を現実の言論に当てはめた解釈は別の建物でやる議論なんじゃないか。

2020/07/15 08:31

teebeeteeさんのブコメもMalkiが述べるのに近い解釈を書いている。

またこちらの記事では発表当時の反響が紹介されていて、当時からゲーマーゲート論争での女性への嫌がらせを「シーライオニング」と呼ぶ文脈があったことが分かる。

このツイートは「漫画の女性キャラを「シーライオン・レイシスト」と呼び糾弾に値すると言う人々がいる!ワロタ」というニュアンスだろうか。

まとめ

ここまで見て来て、Malkiの

  • 風刺対象はあくまでも人間の特定の振る舞い
  • アシカなのは風刺漫画の表現技法上の要請

という明確な意図が明らかになった。確かにこのキャラがアシカでなかったら…と想像すると、風刺漫画としての滑稽味においてアシカは最善に近い選択に見える。

とは言え作品の読解において作者の意図はすべてではないし、CDBさんやあままこさんのような批判が入る余地もあるとは思う。

個人的には初見でのモヤモヤとした解釈のノイズが、作者の意図しない偶発的なものであったことが確認できてスッキリした気持ちだ。