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自分自身を知る人間に世間は辛くあたらない ―『コンビニ人間』古倉さんと白羽さんの岐路ー

コンビニ人間

コンビニ人間

コンビニ人間のラストを私は完全なハッピーエンドとして読んだ。

この物語には「普通」であることを強いる世間一般の人々がいて、その「普通の人間」から排除される存在として主人公の「コンビニ人間」古倉さんと35歳非モテ無職の白羽さんがいた。

その点で似通っている2人ではあったけれど、この2人の物語終了後の人生は対極的になると感じた。古倉さんにとって「普通の人間」との軋轢は解消され、白羽さんにとっては今後も「普通の人間」との闘いが続くだろう。

この2人の違いは何処にあるか。それは自分自身に対する十全な理解に達したか達していないかの違いだと思う。ラストのシーンで、コンビニ店員を辞めさせて古倉さんを世間的にまともな職業に就職させることに執着する白羽さんに古倉さんは言い放つ。

「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」
「そんなことは許されないんだ!」
(……)
「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、 あなたはまったく必要ないんです」

この拒絶。白羽さんや妹、コンビニの同僚や友達などに態度として反発することができなかったそれまでの古倉さんの在り方と一線を隔すものを感じる。

古倉さんは自分自身を「普通の人間」とは異なる動物であるところの「コンビニ店員」として定義した。それまでの古倉さんには、自分と「普通の人間」は大きく異なるということを理解しつつも何処か上辺だけでも「普通」の価値観に合せていた方が余計な干渉を受けず楽だという判断があったようだけれど、ここで吹っ切れたように見える。

それまでの描写を見ても、「コンビニ店員」である限りにおいて古倉さんの周囲の「普通の人間」は古倉さんにとって望ましい存在だった。古倉さんと他の店員とのやりとりは店の運営に関わる「有意義な話」が中心だった。しかし白羽さんを家に置いておくと世間的に都合が良いという何処か妥協に基づく行動が露見してから、他の「普通の人間」である店員は下世話な詮索を始め、その過程で古倉さんを仲間外れにして定期的に飲み会を開いていたという事実が発覚したりする。ここで重要なのは、「普通の人間」への解釈として、古倉さんのことを何処か変わった人だとは思いつつも相応の敬意をもって店員としてのコミュニケーションを支障なく行っていたという側面と、古倉さんを「痛い異常者」として仲間外れにしていたという側面があるとして、(白羽さんがそうしたように)後者が本質だと考えがちだけれども、前者を重視する見方もできるのではないだろうかということだ。

自らの本分を知り、そこに忠実に生きている人間に世間は辛くあたらない。ラストのシーンで完全な部外者でありながら偶然入ったコンビニで咄嗟に適確な指示を出す古倉さんに店員の女の子が向けた畏敬のまなざしがその象徴だ。

対して、「普通」の価値観を激しく軽蔑しつつも中途半端に「普通」に迎合する話法は心得ていて、「普通の人間」からの非難に怯え、古倉さんのことは逆に「普通」の価値観を盾にして脅す白羽さんは、「普通」とこれからも闘い続けなければならないだろう。

結局のところ、「普通の人間」などというものが本質的に存在している訳ではなく、ただ自分自身を知らない人間にとって「普通の人間」が邪悪な他者として幻視され、その幻影にいつまでも虐げられることになるのだ。