牛乳石鹸CMに見る夫婦の不和とコミュニケーションの欠如

最近電通関西支社企画・制作牛乳石鹸のCMが炎上した。

今回の炎上は激しい批判だけではなく、擁護的な意見も多く出て、色々な論点があり興味深いのだけれど、夫婦間のコミュニケーションの問題について、私も感じたことがあったので書いてみたい。

CMに見た私の両親の不和の原因

牛乳石鹸のCMとその批評を見て、自分の両親の関係性について長年感じて来たことと関連するものがあった。

私の両親は、何だかんだ言って今まで上手くやっていると言えると思うのだけれど、喧嘩が非常に多かった(多分今でも多い)。その喧嘩のパターンが、「母がキレて、父が無視し、更に母の怒りのテンションが増大する」というもので、父も、牛乳石鹸の動画の夫のように、自分の気持ちを言葉にすることをほとんどしないタイプだった。

そのことと関連して、下のようなやりとりを見た。

この下のツイートはもう完全にあるあるというか、父は、突然意味もなく不機嫌になり、その理由を説明しないということがしばしばあり、そういうときはその態度に母がストレスを感じ、喧嘩になることが多かった。父が不機嫌になった理由については父の口からはまったく語られないので察するしかないのだけれど、「何となく家庭内で自分が軽視されていると感じたので、不機嫌になることで存在感を主張してみた」というのが、私の中での解釈としてはしっくりくる。

私と妻の場合 ―コミュニケーションを諦めないことの効能―

私はそういった両親の様子を見て来て、夫婦なのに仲が悪いのは嫌だなと漠然と感じていた。牛乳石鹸の夫は昔気質の「背中で語る」父親像への憧れを回想していたけれど、私は何も語らず、母に怒られっぱなしの父のようにはなりたくなかった。

ところが、私も去年妻と一緒に暮らし始めた最初の頃は、妻に激しく怒られまくっていて、完全に父と同じ道を歩みかけていた。そして、詳細な経緯はここでは省くけれど、今はほぼ理想的な状態で仲の良い夫婦生活を送れている。

困難な状況を克服できたのは、私がコミュニケーションを諦めなかったことが大きいと感じている。

牛乳石鹸のCMでは、夫は誕生日パーティの日に飲んで来た理由を説明しない。妻の電話を無視し、帰って来て怒る妻を無視し、風呂に直行する。そしてその後、「さっきはごめんね」の一言で妻はあっさりと許し、平穏な家庭が回復するという展開だ。

しかし私が母や妻を見て来た経験で言えば、このような態度は火に油を注ぐだけだ。「さっきはごめんね」と言ったところで、一体何に謝っているのだという話になる。風呂に入る前は詰め寄る仕草を見せた妻が、「さっきはごめんね」の一言にこっくり頷いて許すのは、リアルな夫の描写とは対照的に、この妻のキャラクターが物語展開に都合の良いハリボテとして作られているのではと疑わせるものだった。

私と妻の場合も、私が妻の理解の範疇を越えた行動をとり、妻が怒るということがある。その際、当初不穏だった頃は、妻はそういった行動に至った私の立場や事情を理解しようとせず、自分の価値観の正しさを根拠として一方的に怒り続けるという感じだった。しかし、私は自分の立場を言葉にして伝えることを粘り強く続け、妻の側でもそういった私の言葉を聞く気持ちがあったので、今では、妻が怒ることはあっても、謝罪の後に事情を説明すれば理解してくれて、すぐに穏やかな態度を取り戻してくれる。

だからこのムービーの「夫」は、もう話そうとしていない。妻からの電話にも出ない。自分の家族が何だかすごく居心地の悪いものになっている。でもそれは随分昔のボタンの掛け違いが、少しずつ積み重なってこうなったものだ。明確に悪い人や悪いものがあって、それを取り除いたら良くなるってものでもない。どうにもならない。こういう絶望を抱いている人、絶対この国にたくさんいますよ。

でさあ、今の日本では、「これってつらいよ、つらいよね」と言うことすら許されないんでしょ?「子どもの誕生日なのに何ふてくされてるの?そんな程度の育児分担も禄にできないの?こっちの方がつらいことが分からないの?これだから男は......」でしょ?どうすりゃいいのさ。そりゃ、「一生独身でいい」「二人目はいらない」が増えますよ。

なので、この増田に書かれているようなことには共感を示しつつも、「どうせ話したって伝わらない」というコミュニケーションの放棄が、関係の修復し難い悪化に繋がるのではと思うのだ。

最近の世の中のコミュニケーション至上主義的な傾向には警戒したい部分もあり、難しい話なのだけれど、私の経験からは、コミュニケーションを諦めないことの有効性というのは確かにあると感じている。