料理を楽にするために

一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案

彼女が最近土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』を買って来て嬉しそうに読んでいた。私たちはお互いの休みが完全にずれていて(私が土日休みで、彼女が平日の不定休)料理はその時の状況に応じて作れる方が作る。私が定時で上がると彼女よりも早いので、彼女と一緒に暮らし始めてから料理をする機会が多い。

ハッとさせられる指摘のある本だ。

素材を生かすには、シンプルに料理することがいちばんです。ところがこの頃は、先述のように手を掛けなくてはいけない、手を掛けたものこそが料理だと思っている人が多い。SNSの投稿などを見ていると、一汁二菜をお膳に正しく並べた画像に「今日は手抜きしちゃった」と言葉を添えてつぶやいています。和食は簡単、普段はもう少し手を掛けていると、少し自慢もしているのでしょうか。そんなつもりはなくても、手の掛からない、単純なものを下に見る風潮がお料理する人自身のハードルを上げ、苦しめることになっているのです。

私にも一汁二菜くらいはないと手抜きなのではないか、という思い込みがあった。

そのプレッシャーをまともに受け取った忙しい人たちは、加工食品を使って、別の食材と混ぜ合わせるとか、できあがったものにトッピングしたりして、複雑にすることでなんとかできると思うようになり、それがまた「手を掛けること=お料理すること」という誤解を助長させています。けれども、私にはそちらのほうが手抜き料理に見えます。

私も惣菜を買って来て無理矢理二菜にしてお茶を濁すということを良くやっていた。

おいしい・おいしくないも、そのとき次第でよいのです。そう思って下さい。必要以上に味を気にして、喜んだり、悲しんだりしなくてもいい。どうでもよいというのではありませんが、どちらもありますから自分自身でその変化を感じていればよいのです。

料理は美味しくなきゃだめでしょというのも当然のように感じていた。

土井さんの言う一汁一菜というのは、ご飯と味噌汁(一汁)と漬物(一菜)を基本としたスタイルのことで、更には具沢山の味噌汁で「菜」を兼ねればご飯と味噌汁だけで十分だと言う。

私は流石にご飯と味噌汁だけでは寂しすぎるのでは、と感じてしまったけれど、本の内容よりも重要なのは、彼女が随分と感銘を受けた様子でこの本を読んでいるという事実だった。

そもそも自分一人で食べるのであれば「手抜き」だろうがなんだろうが腹が膨れればそれで良いのだ。「手抜き」を避けたいというのは、作った料理を食べさせる相手に手抜きだと思われてがっかりされることを避けたいということではないか。別にどちらかが「一汁二菜はないと物足りない」などと言った訳でもないのにお互いにハードルを高めていた、ということがあったのではと感じた。

シンプルな和食の良さ

和食の背景には「自然」があり、西洋の食の背景には「人間の哲学」があります。

和食というのはシンプルなものだと私も感じている。

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水カップ1/2、酒カップ1/2、醤油大さじ1、みりん大さじ3で煮れば標準的な煮物になり、

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水1L、醤油大さじ3、みりん大さじ4で鍋料理になる。季節の素材を買って来て、基本的に醤油とみりんだけの味付けでそのまま中火で煮ればそれで美味しい。

外食も積極的に活用してゆきたい

仮に土井さんのご飯と具沢山味噌汁だけのメソッドを採用したとしても、やはりそれなりに手間はかかる。私は外食も積極的に活用すべきだと思っている。

この一年共働きの生活を営んで来て、日本の労働環境に典型的なオーバーワークは人の心を蝕むものだと身に沁みて感じている。鬱などになったりする前に、少しでもキツい状況であれば早めに「楽をする」選択を採ることは大事だ。料理は本来楽しいもので、それが負担だと感じられたり、ストレスに思えるようであれば、それは身体が休めと言っているサインなのだと思う。

Windowsの壁紙で遊ぶ ― DailyPicでフルHD画質の写真をダウンロードし、PowerShellでランダムに壁紙にする―

DailyPicでフルHD画質の写真をダウンロードする

最近Windows 10のDailyPicというアプリをダウンロードしてみた。

Microsoft検索エンジンのBingのトップページに日替わりで表示されている美しい写真をフルHD画質でダウンロードできる。

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フルHD画質なので大きなディスプレイで壁紙にしても細部まできめやかだ(下の画像はドイツのアイフェル国立公園)。

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PowerShellでランダムに壁紙に設定する

せっかくたくさんの美麗な画像が集まったので、上記のMicrosoft TechNetの記事を参考にして、PowerShellでランダムに壁紙に設定してみる。

私はこのスクリプトPowerShellの$profileに設定してPowerShellを起動するたびに壁紙が変わるようにしている。一日中PCに貼りついているITの仕事はつらいけれど、色々な壁紙を楽しめるとちょっとした癒しになったりする。

疑問点

レジストリの変更をシステムに反映させるrundll32.exe user32.dll,UpdatePerUserSystemParameters 1, Trueは一行書いただけでは何故か成功しない。複数行書いても安定せず、10行ほど書くと概ね上手く反映されるようになる(それでも失敗するときもあるけれど)。どうしてこういう挙動になっているのか色々と調べてみたけれどもよく分からない。知っている方がいらっしゃったらぜひ教えてください。

共働き世帯の現実と旧来の性規範との距離感 ―kinaco68さんの記事への返信―

id:kinaco68さんに、先日ツイキャスで話した「妻がキレるのが怖い」問題についての感想記事を書いていただいた。

この記事を読んで、私は自分の現在の生活と照らし合せて、主に日本社会の性規範の強さに関わる人生の「予定調和感」に何とも言えないやるせなさを感じてしまった。

記事を読む限り、「夫に対等な存在として扱われたいがために、無理をし」ていた状態のkinacoさんがあまり幸せな状態でなかったのは明らかで、専業主婦となってからは旦那さんとの関係性も改善し、良い状態になっているように見える。残業フル装備のSEの1.5倍の給料を比較的短時間の労働で稼ぐ旦那さんの労働条件はかなり良いことが窺えるので、キッチリ夫婦で役割分担してそれで万事解決という見方もできるけれど、何か引っかかる部分もある。

私と彼女の場合

私も4月から彼女と共働きの同棲生活をしているけれど、家事分担量は彼女が多めで、生活費負担量は私が多めとなっている。kinacoさんの記事では、「比較的早い時間に帰宅できる環さんが家事全般を請け負った」と書いていただいたけれど、これは私の伝え方が不十分だった部分で、実際の私の家事分担は彼女が休みの日以外の週5日の料理とゴミ出しとクリーニングの出し入れくらいで、その他の洗濯、掃除などは彼女に全部やって貰っている。私の場合は家事分担への意欲はあるものの、父は家事を一切せず、母は子供に家事を教えない環境で育ってしまったこと、学生時代の一人暮らしでは家事らしい家事を一切して来なかったことのハンディキャップが大きく、彼女がやった方が圧倒的に効率的に行えるということがある。

また、彼女が近いうちに転職するということも決まっている。彼女の職場は典型的なブラック企業で、労働条件は劣悪(サビ残、有休取れない、特別な休みは正月の1日だけ、昇給も実質的に皆無)だ。

私が休日休み、彼女が平日休みということで、婚約したのに二人で結婚式の準備をする時間がまったくない、更にはちょっとしたデートをする時間も一切ないということもあり、最近彼女が転職活動を始めることを決意した。

kinacoさん夫妻との共通点

このように、私たちとkinacoさん夫妻には、

  1. 女性側の家事分担量が多い
  2. 男性側の労働条件の方が良い

という共通点がある。

この記事で筒井淳也さんが書いているように、日本社会は1970年代から80年代に成立した「男性稼ぎ手+専業主婦」モデルから未だ脱し切れていない状態で、男性が稼げなくなった現代においても、男性のケア能力(家事能力+精神的ケア能力)が低い、或はそもそも男性は本質的にケア能力を持てないと思い込んでいるというような状況がある。また、日本の労働市場に存在している厳然たる性差別の問題も深刻だ。

規範との距離感を見極める必要がある

このように、共働きで固定的な性役割から解放された関係性を築くということには現状様々な困難があり、旧来の性規範に従った方が生活が楽になるという局面も多いのではないかと思う。しかし、性別によってライフスタイルが決まっていてそこに関して自由度が無いというのは何とも窮屈なことで、次世代に向けて改めてゆかなければならないことでもある。

kinacoさんも、専業主婦は社会的に孤立しやすいという問題に直面し、再就職すべく現在は職業訓練中のようだ。

様々な制約がある中で、規範との距離を何処におくのが自らにとって幸せな状態か、各自が見極める必要があるのだと思う。

自分自身を知る人間に世間は辛くあたらない ―『コンビニ人間』古倉さんと白羽さんの岐路ー

コンビニ人間

コンビニ人間

コンビニ人間のラストを私は完全なハッピーエンドとして読んだ。

この物語には「普通」であることを強いる世間一般の人々がいて、その「普通の人間」から排除される存在として主人公の「コンビニ人間」古倉さんと35歳非モテ無職の白羽さんがいた。

その点で似通っている2人ではあったけれど、この2人の物語終了後の人生は対極的になると感じた。古倉さんにとって「普通の人間」との軋轢は解消され、白羽さんにとっては今後も「普通の人間」との闘いが続くだろう。

この2人の違いは何処にあるか。それは自分自身に対する十全な理解に達したか達していないかの違いだと思う。ラストのシーンで、コンビニ店員を辞めさせて古倉さんを世間的にまともな職業に就職させることに執着する白羽さんに古倉さんは言い放つ。

「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」
「そんなことは許されないんだ!」
(……)
「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、 あなたはまったく必要ないんです」

この拒絶。白羽さんや妹、コンビニの同僚や友達などに態度として反発することができなかったそれまでの古倉さんの在り方と一線を隔すものを感じる。

古倉さんは自分自身を「普通の人間」とは異なる動物であるところの「コンビニ店員」として定義した。それまでの古倉さんには、自分と「普通の人間」は大きく異なるということを理解しつつも何処か上辺だけでも「普通」の価値観に合せていた方が余計な干渉を受けず楽だという判断があったようだけれど、ここで吹っ切れたように見える。

それまでの描写を見ても、「コンビニ店員」である限りにおいて古倉さんの周囲の「普通の人間」は古倉さんにとって望ましい存在だった。古倉さんと他の店員とのやりとりは店の運営に関わる「有意義な話」が中心だった。しかし白羽さんを家に置いておくと世間的に都合が良いという何処か妥協に基づく行動が露見してから、他の「普通の人間」である店員は下世話な詮索を始め、その過程で古倉さんを仲間外れにして定期的に飲み会を開いていたという事実が発覚したりする。ここで重要なのは、「普通の人間」への解釈として、古倉さんのことを何処か変わった人だとは思いつつも相応の敬意をもって店員としてのコミュニケーションを支障なく行っていたという側面と、古倉さんを「痛い異常者」として仲間外れにしていたという側面があるとして、(白羽さんがそうしたように)後者が本質だと考えがちだけれども、前者を重視する見方もできるのではないだろうかということだ。

自らの本分を知り、そこに忠実に生きている人間に世間は辛くあたらない。ラストのシーンで完全な部外者でありながら偶然入ったコンビニで咄嗟に適確な指示を出す古倉さんに店員の女の子が向けた畏敬のまなざしがその象徴だ。

対して、「普通」の価値観を激しく軽蔑しつつも中途半端に「普通」に迎合する話法は心得ていて、「普通の人間」からの非難に怯え、古倉さんのことは逆に「普通」の価値観を盾にして脅す白羽さんは、「普通」とこれからも闘い続けなければならないだろう。

結局のところ、「普通の人間」などというものが本質的に存在している訳ではなく、ただ自分自身を知らない人間にとって「普通の人間」が邪悪な他者として幻視され、その幻影にいつまでも虐げられることになるのだ。

コミュニケーションがすごく楽になった話

昔の私は人間関係やコミュニケーションの問題で苦労することが多かったのだけれど、気がつけばそういうことが綺麗になくなっていた。せっかくなので何が改善されたのか整理してみたい。

何が苦手だったか

私のコミュ力は全般的に低かったのだけれど、特に「中高のクラスメート」や「大学の同じ専攻の同期」みたいな距離感の人間関係が圧倒的に苦手で、深刻に孤立する機会も多かった。私はこの春に大学卒業、就職という節目を迎えたので、これまで通りであれば「会社の同僚」との付き合い方に大いに苦労するはずだったけれど、今回は上手くいっている。何が変わったか簡潔にまとめると以下の3つの観点になると思う。

当たり前のことができるようになった

朝、同期の女性と電車の時間が同じなので一歩先を歩いている姿を見かけることが多い。こういうとき、今の私は「○○さん」と名前を呼んで普通に話しかけることができるのだけれど、昔の私であれば過剰な自意識から声をかけることができず、わざと歩くペースを落として距離をとったり、或は電車の時間そのものを変えてしまったかも知れない。こういうことをしてしまうと、その場の会話機会がキャンセルされてしまうというだけではなく、不審な挙動を相手に悟られて深刻な溝が生じてしまう可能性もある。

人に自分から話しかけるとか、目を見て話すとか、挨拶をするとか、そういう当たり前のことが最近の私はできるようになっている。

できないことはできないと判断できるようになった

一方で、できないことはできないと判断して無理しないようにもなった。人の輪ができているときに会話の主導権を握ったりとか、コミュニケーションに消極的(受動的)な人に話題を振って上手くサポートするとか、相手の立場を察して適切な配慮をするとか、そういう上級コミュニケーションについては基本的に私はできないので得意な人に任せるようにしている。できないことに執着してしまうとそこに自意識の葛藤が生じるので、今後の成長の可能性に期待しつつも現時点でできないことをできないと適切に判断することは大事だと思う。

人と親密になることへの切迫感がなくなった

昔の私は「友達が一人もいないのはヤバい」とか「集団から浮かないように誰かと仲良くならなければ」とか思っていたのだけれど、今はそういうことはない。仲良くならなければ、友達を作らなければ、恋人を作らなければ、というのは恐るべき呪縛だ。そもそも私がクラスメート的な関係性が苦手だったのも、「何でも話せる友人」と「分かり合えないその他大勢の他者」という二分法的把握によるものだった。「親密になれた」とか「分かり合えた」というのは大部分幻想の自己投影によるもので、幻想は決して自分とは異なる他者の上で十全に実現されないので、人を支配しコントロールしたいという欲求に対して危うい状態になる。安定して人とコミュニケーションするためには、自他の区別をしっかりと立てて適切な距離を保つ必要があるだろう。

まとめ

そういう訳で今の私は人とのコミュニケーションに苦しみを感じていない。ただ、3.についてはまだ改善の余地があると思っていて、というのも、自他の区別をしっかりとさせて人間関係が安定したのは良いとして、人と人が分かり合うということはすべて幻想だというのもやはり極端な物の見方であるように感じられるからだ。今の私は人と親密になることを怖れている。この怖れを克服できたとき、私のコミュニケーションの問題は真に解決されることになるだろう。

ポケモンGO非課金勢がシャワーズ以外を使う意味はあるのか

非課金勢がジム戦で勝利、防衛したいときに、シャワーズ以外を使う意味はあるのか?という話。

Pokemon List | Pokemon GO Wiki - GamePress

上記リンク先でCPの上限("Max CP")が調べられるけれど、"Max CP"でソートするとシャワーズは上から11番目(伝説のポケモンを除くと6番目)と、極めて高い水準にある。

上記リンク先では各ポケモンのパラメータを調べられる。シャワーズはHPの高さが特徴的で、攻撃力と防御力の水準も高い。

更にシャワーズは「わざ1」の「みずでっぽう」を同タイプで使えるのも大きい。尋常ではない連射力で敵のHPをゴリゴリ削ってくれる*1

ポケモンGOのジム戦は、ジムを撃破した後に自分のポケモンを置く必要がある。このとき、1つのジムにつき1体しか置けないのがポイントで、6体の総力戦で勝ってもCP1000以下のポケモンを置いたのでは一瞬で落とされる。バトルシステムとしても、任意のタイミングで撤退が可能で、豊富に出現する回復アイテムを使用してただちに再挑戦できるため、強いポケモン1体を用いた一撃離脱戦法が可能だ。相性の悪さもCP差で覆せる。このように考えてゆくと、6体のポケモンを満遍なく育てて相手のタイプを見て相性の良いポケモンを出すという本家ポケモン王道の戦略は、ポケモンGOの場合はあまり有効ではないと考えられるのだ。

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更に、このようにポケモンGOではCPが上限に近づくにつれて、200、400、600、800、1000、1300、1600、1900、2200……と必要な「ほしのすな」の数が上昇するので、CP上限が低いポケモンは育てても弱い上に希少なほしのすなを大量に消費するという二重苦を背負うことになる。CP上限2800以上のシャワーズと2000前後のピジョットクラスの中堅ポケモンでは雲泥の差がある。

また、シャワーズは、進化前のイーブイの出現頻度が高いのも大きい。他のレアポケモンと違って、強化に必要なアメが枯渇することなく、余裕があれば第2、第3のシャワーズを生産することも可能だ。

イーブイを"Rainer"と名付けてから進化させるテクニックを使えば、進化にランダム要素が絡むこともない。

このようにシャワーズは非課金勢にとって最強のポケモンであるため、現に今私の自宅から見渡せるジム5つのうち、4つのリーダーがシャワーズとなっている。

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私は大量のほしのすなを投入して育てたピジョット、ストライク、アズマオウカイロスを解雇した。シャワーズさえいればいい。

*1:追記:アップデートでみずでっぽうは弱体化された。

パートナーのヒステリーへの対処法

「僕が後から帰宅すると4割くらいの確率でヒステリを起こす」ってのも、感覚としてよく理解できる。ここも俺の嫁はタイプが違っていて、俺の帰宅が遅いことを理由にキレるってことはないんだけど、「これをやると4割ぐらいの確率で大騒ぎになる」っていうパターンみたいなのはあるんだよね。

たとえばうちの場合、嫁が帰宅した瞬間に俺がリビングにいたりすると高確率で不機嫌になって、色々なことにケチをつけ始めてだんだんボルテージが上がっていき、そのまま放置すると大爆発まで行ってしまう。疲れて帰ってきた後は1人になりたいみたいだ。だから嫁が帰ってくるまでにやることはすべて終わらせて、寝てしまうか、自分の部屋に引きこもることが必要だ。

俺の感覚からすると、疲れてるのにキレるってのはとても不思議で、キレたら余計エネルギー使うじゃねーかと思うんだけど、まぁそういうものらしい。

私も、仕事で帰ってくるのが遅くなるとキレる彼女に悩まされていたので非常に共感できる文章だった。ブラックな企業に就職して転職もせず、ストレスフルな労働をしているツケを他人である私が引き受けなければならないというのは実に理不尽な気持ちだった。

で、元増田のブコメをみていたら、夫婦喧嘩していると勘違いしているものとか、「離婚しろよ」みたいな声がけっこうあって、「あー全然分かってないコメントだなぁ」って思った。女がヒステリーを起こすのって、同居してる男からみれば病気とか天災みたいなもんなんだよ。だから「揉めてる」って意識は全くないんだよね。

なんか自然災害のようなもので家の中が荒れていて、とても憂鬱なんだけど、べつに夫婦喧嘩しているわけではないからこっちに「怒り」みたいなものも無いわけ。当然、子供に愚痴を吹き込んだりもしない。「仲の悪い夫婦って子どもにも悪影響あると思うよ」というブコメがあったけど、あるとすれば「母親が感情的に不安定であること」の悪影響であって、仲が悪いのとは全然違うんだ。

ヒス発動中に嫁が吐く暴言にムカつくことは確かにあるんだけど、だからって嫁と戦おうとは思わないんだよね。とにかく、「早くこの嵐が過ぎ去って欲しい」っていう願望と、「我慢するしかない」っていう憂鬱だけがある状態。これ、分かんない人にはほんとイメージできないだろうけど……。

この辺りの心理描写もまんまそうだったので良く分かる。この問題を実際に体験したことが無い立場からすると、「怒っている理由を親身に聞いてあげて慰めれば良い」とか「怒っていないときに怒るのをやめるように話し合えば良い」とか安易に考えがちなのだけれど、これは「天災」なので、人の力で鎮められるものではないし、また、怒っているときと怒っていないときではほとんど別人格とでも呼ぶべき隔たりがあるので、怒っていないときにわざわざ怒っているときの話をしようという気持ちにもなれない。また、恐怖による条件付けに裏づけられた怒る/怒られるという関係性が出来上がってしまった時点でもはやその関係は「対等」ではなく、「怒られる側」が「怒る側」に自分の気持ちを自由に伝えられる機会が限定されてしまうということもある。

ただ、この方はまだパートナーのヒステリーに悩まされていて、私の彼女は怒らなくなったので今の状況は異なる。異なるのだけれど、何が違うのかについては正直「運」としか言いようがないと思う。この問題に明確な解決策は無い。

この前の記事では、「キレている人は放置して物理的に距離をとれば良い」ということを書いたけれど、「だから嫁が帰ってくるまでにやることはすべて終わらせて、寝てしまうか、自分の部屋に引きこもることが必要だ」という一文から分かるように放置して自室に引きこもるというようなことは冒頭リンク先の方も既に実践している。

「キレられる側」の対応に大きな違いはないけれど、私のパートナーはキレるのをやめて、彼のパートナーはキレるのをやめていない。つまりこれは「キレる側」の対処の問題なのだ。

最近田房さんの『キレる私をやめたい』を読んだ。夫にキレまくっていた田房さんが自身の過去のトラウマと向き合い、キレるのをやめるまでを描いた漫画だ。

このように、「キレる側」が自身の攻撃的なコミュニケーションスタイルの愚を悟り、パートナーに穏やかに接せられるように尽力する以外に根本的な解決策はない。

「キレられる側」にできること

無いのだけれど、敢えて「キレられる側」にできることをまとめると、以下の2つになる。

  1. 「キレられる」ことを肯定的に評価しない。「キレる側」が100%悪いという立場を維持する。
  2. 関係解消の可能性を担保する。

まず、「キレる側」が100%悪いという原則を確認することは大事だ。モラハラ被害者の典型的な思考パターンとして、「相手は自分のことを思ってくれているから怒っているんだ」とか「自分にも落度があるし相手が怒るのも当然だ」などと行為の正当化を意識的或は無意識的に行い過酷な状況に適応を図るということがあるけれど、これはまずい。たとえ「キレられる側」に何らかの落度があるにしても、対話を放棄してキレるような行為には一切の正当性が無いということをしっかりと確認するべきだ。キレるパートナーのことは許してもキレる行為そのものは絶対に許すべきではない。

次に、関係性をいつでも解消できる、という退路の確保はやはり重要だ。私は親に甘やかされて育ったので、人に怒られるということが何よりも嫌いで、これ以上キレられるようだったら婚約を破棄して実家に帰る心積もりでいたので、その危機を彼女が察知して改善に至ったということはあるかも知れない。ただ、冒頭の記事の方のように結婚して子供までいるとなるとそう簡単にもいかないだろう。

まあそんなこんなで、関係は続いていくんだ。客観的にみれば、離婚するほうが合理的かもしれない。でもヒステリックな嫁の相手をしている男にとっては、それは離婚の理由になるようなものではなく、むしろ己の人生の制約条件として背負っていくべきものだという意識になっているということを、理解してもらいたい。

ラスト付近のこの言葉は重い。これくらいの忍耐が必要になる局面というのは人生にはあるのかも知れないなと、最近は思うこともある。