はてなブログのオリジナルテーマJuneを公開しました!

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June - テーマ ストア

はてなブログ公式のテーマストア"June"というブログテーマを公開しました。

このブログが現在採用しているテーマです。広めの行間が指定してあり、一行の文字数も読みやすくなるように調整してあるので、ゴリゴリテキストを書きたい方に最適なテーマになっていると思います。本文にやや薄めのグレー、記事タイトルに爽やかなブルーを指定したカラーリングもポイントです。テーマストアの右端にある「プレビューしてインストール」ボタンを押せば簡単に適用できるのでぜひ試してみてください。

PC版のみ対応で、スマホ版はデフォルトのデザインとなっています。不具合報告、ご意見、ご質問、ご感想などいただけると嬉しいです。

GitHubソースコードをupしています。

はてなブログのデザインCSSをカスタマイズする土台に適したサンプルテーマ「Boilerplate」を配布しています。

このテーマをもとにCSSを記述すると、ゼロからテーマを作るのが難しいという方でも、比較的簡単にデザインテーマを作ることができます。

はてな公式のサンプルテーマ"Boilerplate"を土台にして作りました。私のコードは自由に改変して使っていただいてOKです。

「妻がキレるのが怖い」問題について

NHKクローズアップ現代で「妻が夫にキレるわけ」という特集があったらしい。

この問題は先日書いたように私も今(未婚者ではあるけれども)当事者として直面していることで、最近考察を深めているので記事を書きたいと思った。

2つの問題点

「妻がキレるのが怖い」事象には2つの問題点があると感じている。

まずは、妻がキレるレベルで夫の家事・育児貢献度が低いということ。これは分かりやすい問題点で、男性も家事への参加意識を持ち、家事スキルの向上に謙虚に取り組む以外にないと思う。

もう1つは、パートナーにキレて怯えさせる妻の問題。上記リンク先に紹介されている「書店や電気店などを4時間ほどぶらつき、妻が寝静まるのを待つ」という夫の習慣は、利害関係を考慮した合理的判断ではなく、身体が恐怖に支配されて勝手にそう動いているのだろう。恐怖は人の心だけではなく身体を直接支配し、自らの意志で自らの身体を動かすことさえ困難にさせる。いじめ、毒親、DV等、あらゆる暴力的関係性に「恐怖による身体の支配」は絡んでいて、これは最も原始的なモラハラ的コミュニケーションの型であり、どのような理由があったとしても許容されるものではない。

いったん距離をおくという解決策

私も4月には家事上のミスを彼女に怒られるということがしばしばあって、恐怖に身体を支配されかけていた。

実際私の家事スキルは貧弱なので、最初のうちは怒られるのも仕方がないと我慢していたのだけれど、どうも自分の家事スキルの低さだけが問題ではないということに気づき始める。というのも、彼女が仕事で帰るのが遅くなったときにキレやすいということが分かってきたからだ。仕事で遅く帰ってくると普段は怒らないような些細なことで怒り出して、立て続けに次々とミスを指摘して寝るまでキレ続けるというパターンがあることに気づいた。これはさすがに不当だと思った。仕事の不快感を他人に不快感を与えることで解消するというのはどう考えても非生産的で何ら事態の解決に向かっていないからだ。

そこで彼女に、指摘された問題点については改善するよう努力しているけれど、怒られても私は変わらないという趣旨のことを伝えて、彼女が怒り出したときは、黙って自室に入って扉を閉めて放っておくことにした。怒っている人を放置するのはどうなんだ、ますます怒り出すんじゃないかという懸念が最初はあったけれど、結果的に彼女は怒り過ぎたことを反省してくれて、徐々に怒る回数を減らすように努めてくれた(彼女の方としても人への当りが強い気性は何とかしたいと日頃感じていたようだ)ので、今は平和に暮らせている。

私は恵まれてる方かもしれませんね。
わりと夫は、私が一方的にちょっと攻撃性が高まっちゃう時に、それをいなしたり、かわしたりするのがとても上手です。
私が何か言いたいなって時に、彼はさっといなくなったりするんですね。
さっといなくなって、しばらくすると戻ってきて、疲れていると思うからコーヒーいれたよって言ったりするんですね。

この解決策は奇しくも冒頭リンク先の中野さんのパートナーのコミュニケーション手法に近い。

ムーチョさんの関連記事でも、怒っているときにパートナーにカフェに追い出されたら気持ちが落ち着いたというエピソードが紹介されている。怒っている人のことは下手になだめようとせずに物理的に接触をいったん断つのが正解なのかもしれない。

「思いやり」があるかないか

とは言ってもこれは彼女が自発的に怒るのをやめようと努力してくれなかったら解決しなかった問題だ。やはり最終的にはパートナーへの思いやりがあるかないかの問題になるのだと思う。家事の重役を一方的に課すというのも、恐怖で行動を支配しようとするのも、パートナーを思いやる心があれば出来ることではない。

お互いに思いやりを持てなくなったら関係を解消することも視野に入れて、地道にコミュニケーションを重ねてゆくしかないという印象だ。

肌を触れ合せるセックスの気持ち良さと日常のコミュニケーションとしてのスキンシップ

前回に続いて、『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』の感想をもう少し書きたい。

対談のラスト付近で、湯山さんが次のように結論している。

セックスしたほうが、人生のまっとう感において充実する。挿入ありきのセックスでなくても添い寝でもいい。体温だよね。皮膚の触れ合いから得られる信頼感はどんな精神薬よりも凄い。人生戦略としてなくてはならないもの。

「皮膚の触れ合いから得られる信頼感はどんな精神薬よりも凄い。人生戦略としてなくてはならないもの」というのは、私もそう思う。肌の触れ合いは気持ちいいし、リラックス効果がある。(ハグなどの)スキンシップを使わないで言葉のコミュニケーションだけで共同生活を上手くやっていくのはなかなか大変だろうなという印象がある。

スキンシップの回路が繋がるまでの障壁

ただ、日本にはスキンシップの威力を理解する回路が繋がるまでに立ち塞がる障壁があって、まず、家庭によって事情が異なるだろうけれど、スキンシップ文化が欧米ほど普及していない。その結果、

日本の文化の中では、母親のベタベタがあまりに強いけれど、考えてみれば、その後のスキンシップがずっとなくて、その後がいきなりセックスということになっちゃっているんですよ。異性とのセックス以外にスキンシップするチャンスがないんだよね。

湯山さんがこう述べるような、日常のコミュニケーションとしてのスキンシップがスッポリと抜け落ちて突然セックスに至るという事態が発生してしまう。しかし、そのセックスでいい感じのスキンシップに辿り着けるかというのも定かなことではない。その一因として、セックスのイメージを形作る上で重要な意味を持つと思われるポルノにおいてスキンシップが重視されていないことがある。

二村さんは現代のAVの特徴について次のように語る。

現代のAVは、お客さんのオナニーの邪魔になるものを徹底的に排除する方向に進化している。それをつきつめると男優に個性はいらない、心は込めずにチンポだけ勃てておけ、女優は男優のほうを見ずにずっとカメラ目線でセックスしろということになる。それで不自然に見えないような、男優の手と下半身だけを使って、ユーザーが女優とセックスしているような気分になれるカメラワークも研究開発されています。

男優が上体を起こして挿入するいわゆる「AV正常位」に象徴されるように、一般的なポルノでは視覚効果を最優先するために男優と女優がぴったりと肌を接触させるような描写を徹底的に排除する傾向がある。

http://www.gentosha.jp/articles/-/5124

独身時代、私はベッドの上で「男がメインで前戯→挿入→射精という定型じゃなくていいんだ」と提案してました。必ずしも射精は必要じゃないし、ひたすらイチャイチャして愛撫しあっていると「こんなの初めて…!」と感激する男子が多かった。彼らも慈しみ合うようなセックスをしたいんだと思います。

以前アルテイシアさんが、彼女に導かれてポルノ的セックスから脱した男性の喜びの声を紹介していた。「こんなの初めて…!」という感想に率直に表れているように、セックスにおいて皮膚感覚を大切にするという基本に辿り着くのが現代の日本ではまず容易なことではない。

スキンシップの威力と「セックスは別に必須ではないよね?」という感覚

一度スキンシップの威力を体感してしまうと、今度は「別にセックスまでしなくても良くない?」という感覚も生まれてくる。コミュニケーション手段として見ると、セックスが通常のスキンシップと比べて特別に優れている訳ではないし、セックスは真面目にやると全身の筋肉を使ってかなり疲れるのでそれなりに面倒。結局のところ、

「たかがセックス」というのは、大人は当たり前じゃないかという気がする。貴重品として、「やるんだったら、楽しい境地はあるよ」という程度が正しい。

湯山さんがこう述べるようなラインが妥当なのではという気もする。色々なコミュニケーションの手段を揃えた上で、それぞれの関係性にとって必要なものを必要なだけ使えれば良いのかなという感じだ。

セックスにおける「男性役割」のつまらなさ ―私自身のセックスの悩みを通じて―

やはりセックスにおける「男性役割」はつまらないし気持ち良くない――『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』を読んでそう思った。

この本で湯山玲子さんはオールドタイプな性規範がセックスにもたらす影響力を次のように分析している。

襲う性、オス性の魅力は、文化的に女性に相当刷り込まれているので、ほとんどの女性はセックス時のプレイ的な男の暴力性は嫌いではない。でも、それは都合がいい暴力性で、「オマエが愛おしくて、欲しくて辛抱タマラン」という愛という名のスウィートな暴力。その暴力に油を注ぐべく、生まれたての子鹿のように震えて、おののく、という女性側の演技も含めてね。問題は暴力装置による男女の支配・被支配の関係が、もう血肉化されているから、そうしたポルノでオナニーしてきて私たちに、果たしてそうじゃない第三の道があるのかという話。

そして湯山さんは、

男たちが従来の発情システムと、現実の感情にズレが生じていることを感じ始めている。

と、現代の男性たちは「従来の発情システム」に違和感があるのではないか、と指摘する。

更に湯山さんは、BLの魅力は攻めにも受けにも感情移入できることだとした上で、BLと比べてレディコミ(女性向けのヘテロエロ漫画)にはある「不自由」があると語る。

レディコミはBLに比べて、一点だけ不自由なところがあるんですよ。ヤラれる女のほうにはもちろん感情移入はできるんだけど、どうもヤル側の男のほうにそれがしにくい。女をヒイヒイさせるという役割のときに、「えっ、この女には私の心のチンコは勃たないわな」とちょっとブレーキが入っちゃう。ヘテロなゆえに、受けが女だと例の女同士の細かいセンサーが働いて「それは違う」となるんですよ。加えて、セックスは受け身のほうが絶対快感が大きいので、レディコミの場合、感情シンクロが簡単に女のほうに行ってしまう。おわかりかな?

分かります!と大きな声で言いたくなる。さらっと言っているけれど「セックスは受け身のほうが絶対快感が大きいので」これ。湯山さんはセックスにおける男性役割の快楽の少なさを見抜いているのだと思う。

セックスにおける男女の非対称性 ―私のセックスの悩み―

この湯山さんの一連の発言は、今の私のセックスのちょっとした悩みとシンクロしていて、というのも私のパートナーは攻めるのが得意で、凄まじい快楽を教えてくれたのだけれど、基本的には女の子ムードを楽しみたいようで、私はセックスにおいて男性役割を演じなければならない。

例えば、セックスが始まるときに押し倒すのは必ず私の方なのだけれど、これはもちろん「性欲に任せて」押し倒している訳ではない。彼女がセックスしたがっている様子をその日の空気で察して、いちゃいちゃしつついい感じに仕上がって来た段階で「如何にも性欲を抑えられなくなったような体で」押し倒すのだ。

やはり好きな人の喜んでくれることをしたいという気持ちはある。そうすると、「如何にも性欲に支配されて激しく身体を求めている」ような動きに彼女が喜ぶらしいということがどんどん分かってくるのだ。これは冒頭に引用した湯山さんの語る女性に内面化された価値観とまさに一致していると思う。そして私は「従来の発情システムと、現実の感情にズレが生じていることを感じ始めている」。いつか彼女がやる気になって私の身体を攻めてくれることに淡い期待を抱きながら彼女の身体を激しく求めるという「型」を実行しているのだ。

これは話し合って攻める割合を50/50にして貰えば良いということではない。彼女が自発的に察してやってくれることに意味がある。受けの快楽は贅沢なもので、ここに妥協は許されない。

まあ一応男性役割にも魅力がまったくない訳ではないのだけれど、それはある種の職人的な満足感であって、快楽の強度からするとかなり物足りないと思う。

「男が受け身」というより、「セックスはリバーシブルなのが自然」になればいいんですが。 男はこう、 女はこうと決まっているほうが不自然。

二村ヒトシさんがこう語るような理想を突き詰めて、攻めの時間配分が完全に平等なセックスとか、その日その日で役割を入れ替えるセックスとかが実現できれば楽しいと思うけれど、なかなか現実は思い通りにはいかなくて、やっぱりセックスの魅力と難しさは「人とするものだ」ということろこに集約しているのだと思う。

会社の仕事はつまらないという当たり前の事実の確認

将来の職業のことは、やはり切実だった。

私は森鴎外が大好きだが、彼は「仕事」を必ず「為事しごと」と書く。「仕える事」ではなく、「る事」と書くのである。私はこの発想を気に入っていた。人間は、一生の間に様々な「事をる」。寝て起きて、食事を摂って、本を読んだり、映画を見たり、デートをしたり「為る」。職業というのは、何であれ、その色々な「為る事」の一つに過ぎないが、ただ、一日二十四時間、死ぬまでの何十年だかで、最も長い時間を費やす事であるには違いない。だからこそ、自分の本性とマッチしたものでなければ、耐えられないはずだ。

「職業というのは……一日二十四時間、死ぬまでの何十年だかで、最も長い時間を費やす事であるには違いない。だからこそ、自分の本性とマッチしたものでなければ、耐えられないはずだ」というのは私も思ってきたことで、だからこそ「やりがいのある仕事」をしたいと思っていたのだけれど、結局医師にも研究者にもなれずに会社員になるしかなかった。とは言っても、平野啓一郎みたいな非会社員の小説家が言っていることは怪しいもので、世間に溢れている「会社の仕事=つまらない」的なイメージは本当にそうなのだろうか、面白みを見つける工夫が欠けているだけでは、という気持ちもあった。

結果としては、一か月会社員をやってみて、会社の仕事はつまらない、というありふれた常識を確認することになった。

勤務先の会社は、主力の自社製品(企業向けのクラウドシステム)一本で利益を挙げている小規模なIT企業だ。研修では、Excelで書かれた設定資料を読んで、手動でシステムに値を打ち込んで動作テストをしている。非常に単調な作業でつまらない。小さな会社なので、自分がこのままキャリアを進めるとどういう仕事が出来るようになるかはサクッと見通せるのだけれど、この手打ちのテスト業務に加えて、顧客の要件をヒアリングすることと、要件を反映する為にシステムのカスタマイズ設定をExcelで書く*1ことと、その設定を日本語に起こした設定資料をExcelで書くことが出来るようになる。基本的にはこれだけだと思う。Excelに始まりExcelに終わるという感じだ。

開発に回れれば面白い仕事が出来るかなと思い、プログラミングの勉強をしているのだけれど、開発はガチな少数精鋭で固められているので、未経験文系の自分に入り込める余地は無いような気もする。

仕事がつまらないこと以外には特に不満はなく、働きやすい会社だと思うのだけれど、このつまらなさは何とかしないとなと思っている。今は他の選択肢が皆無なので、この場所で出来ることをしつつ、将来の転職も視野に入れて他の選択肢をまずは一つ作る必要があると感じている。

*1:社内の開発者が作成したVBAで動く仕組みによって、Excelの設定をシステムのDBレコードに反映できる。

「言葉で伝える」ことの難しさと共感性の効力 ―人と共に一か月暮らして―

彼女とは言いたいことを言い合える関係を築けていたし、事前に不満は溜め込まずすぐに伝えることを念入りに確認し合ったので、共同生活はどうにでもなるだろうと舐めてかかっていたのだけれど、そんなことはまったくなかった。

一番大変だったのは彼女が仕事から疲れて帰ってくると私の家事上のミス(帰宅後の内鍵のかけ忘れ、カーテンの閉め忘れなど)について激怒し始めることだった。料理をして洗濯物をたたんで、それでも何か不手際があると怒られる。慣れない家事でミスをゼロにするように気を配るのは大変なストレスで、一時期は神経が衰弱し切っていた。

理想を言えば「家事上のミスについては改善しようと努力しているけれど、自分は今までほとんど家事をしてこなかった人間なのでどうしても最初のうちはミスが生じてしまうし、一々恫喝されていたのでは恐怖で委縮して出来ることも出来なくなってしまう。冷静に問題点を指摘して欲しい」という趣旨のことをちゃんと伝えれば良かったのだけれど、彼女の激務による疲労(彼女は接客業で、平日の不定休と他店舗出張が出鱈目に入り乱れるシフトかつサービス残業は当り前という環境で働いている)で余裕を失っている様子を見ると、言葉を切り出すことが躊躇われた。

結果、私は露骨に衰弱した様子で溜息をついてみせるという「察してちゃん」的な態度に出ざるを得なかった。コミュニケーション論的には「察してちゃん」は事態の解決に向かわない最悪の手段で、私自身恐怖に支配されて「察してちゃん」になっている自分はもう駄目だと思ったので、「やはり自分には結婚とか無理だった。婚約破棄して関東の実家に帰ろう」みたいに破局的な発想に走りかけていたのだけれど、廃人のようになっている私を見て彼女は怒り過ぎてしまったことを反省してくれて、今はマイルドな言い方を心がけてくれているので、二人の楽しい時間も戻って来つつある。

頭の中でコミュニケーション論を考えると、間違った内心の推量が深刻なすれ違いを呼ぶ可能性があるため、想像力とか共感性に頼らずにちゃんと言葉で伝えた方が良い、となるのだけれど、今回は彼女が私に対して共感力(察する能力)を発揮してくれたことに救われた気がする。

コミュニケーションは理想通りにはいかない。言葉も感性も使えるものはすべて使って乗り切るしかないという印象だ。

単位とれた!

今日の朝大学の成績開示があった。ギリギリ卒業要件を満たすように受講していたので一つでも落としたら卒業できず内定取消と婚約破棄のコンボで人生終了する状況で、恐怖に胃を痛めながら成績表をダウンロードしたけれど、無事全部通っていて、卒業要件ぴったりの単位数で卒業できることになった。卒業要件140単位中、私が学年別に取得した単位は、

  • 一年生:40単位
  • 二年生:15単位
  • 三年生:18単位
  • 四年生:67単位

こうなっていて、卒業に必要な単位の約半分(そのうち卒論関連が16単位)を今年度に取得したことになる。

そもそもこんな状況になってしまったのは、二年生の秋にサークル(創作系)の偉い先輩とTwitter(今のアカウントとは別のアカウント)で喧嘩して界隈八分を喰らったという何ともアレな経緯で廃人状態に陥ったことが原因で、去年の今頃は躁鬱的な傾向のある引きこもりというかなり悲惨な状態だった。

地元神奈川県の地方都市のとある心療内科にて

流石にこんな状態で就活と卒論と膨大な単位取得をこなすのは不可能と考えて、去年の今頃、地元神奈川の心療内科に行ってみることにした。

待合室に座っていると、診察室の裏の扉を開けて受付にひょいっと先生が頭だけ出して来たのだけれど、その顔を見てギョッとしてしまった。蒼白い肌の女性で、長い黒髪が一筋顔にかかっていて、妖怪にしか見えない。ふと周りを見回してみると、待合室に座っている人たちの挙動も明らかにおかしい。ヤバいところに来てしまったと思った。

将来への絶望的な気持ちに支配されながら診察室に入ると、第一印象とは異なり、先生はユーモアのある明るい語り口で、見開きのノートにメモをとりながら私の話を丁寧に聞いてくれて、

「どうしましょうか。特に治療が必要な状態だとは思いませんが。すごく、まともでいらっしゃるので」
「まとも、ですかね」
「ええ。目を見て話してくださって、塞ぎ込んだりもしてないですし、逆に、ハイになり過ぎているということもなく」

と言ってくれた。「まとも」と言われて何だかすごく安心した気がする(心療内科的なテクニックなのだろうか)。取り敢えず治療は無しで、ヤバくなったら薬を処方して貰う、という方針になった。

自分の力で何とかした訳ではない

結局心療内科にはその後通うこともなく、就活も卒論も単位取得も無事にこなせた訳だけれど、これは自分の力で成し遂げたことではない。私の危機的な状況を知り、母はこの一年間惜しみない援助をしてくれた。私は何事も成し遂げられなかったけれど、他者に支えられているという事実を生まれて初めてまともに認識できるようになった。健康な精神を取り戻した今、母にはいつか恩返し出来たらと感じている。