一連の「弱者男性論」言及から見えて来た「弱者男性」概念のコアとその将来への提言 ―フェミニズムとのコンフリクト―
クリッツァ―さんの「弱者男性論」に批判的に言及した記事を発端として、Twitterやはてな匿名ダイアリー(通称「増田」)で「弱者男性」の議論が盛り上がっている。
クリッツァ―さんの記事では「キモくて金のないおっさん」や「かわいそうランキング」、「女性の上昇婚志向」というワードが言及されていることから、Twitterのアルファ弱者男性論客*1の議論を念頭に置いていると思われる。
その一方で、増田の弱者男性論エントリやそこについたブコメを読むと、いわゆる「あてがえ論」とは一緒にしないで欲しいとの見解も頻出しており、どうやらTwitterのアルファ論客による論調こそが「弱者男性論」であると結論づけたのではミスリードな部分があるようだ。
そのような問題意識の元、ただ対立を煽りたいだけの野次馬的言及を慎重に排しつつ、一連の増田とそこに付いたブコメを、当事者的言及と解釈できるものを重視して読み解いてみたところ、「弱者男性」という一見して定義不明瞭な印象を受ける用語について、コアと呼び得るようなコンセプトがあることが見えて来た。
「男性」というだけで「強者」扱いしないで欲しい
結論から言うと、フェミニズムは「男性」という属性についてまとめて「強者(マジョリティ)」として批判するけれど、男性が皆強者ではなく、弱者の男性もいると認めて欲しいというのがそのコアだと解釈した。
'弱者男性への救い'が何であるのか、具体的にどのような社会的状況が実現されれば、弱者男性は救われるのか、という点について意見を募りたい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700814602038291234/comment/akuwaruaku
弱者男性への救いとは、具体的に何か「男性は皆全員強者だ」論を見たときには、「こんな惨めな人生でも強者あつかいか……」とは思ったんで、せめて強者として扱うのはやめてほしい。どうせ救われぬ人生だけど、救われなかったことくらいは認めてほしい
2021/04/06 02:20
「弱者男性への救い」について素朴な疑問を呈した増田に対して、はてなスターが多い順*2に上から2つのブコメは同じ趣旨の内容に読める。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700835551288076226/comment/aobyoutann
『『「弱者男性は従来の社会運動で既に包摂されている」みたいな方向性に持っていきたいのかな - frothmouth のブックマーク / はてなブックマーク』へのコメント』へのコメント
- [差別]
基本的に男性一般を強者として殴らなければ"弱者"男性なんてわざわざ言う必要ないはずなんですよ。なぜなら頭のおかしい人以外は社会的弱者に男性は含まれないなどという差別的な思考はしないから
2021/04/07 22:34
また、別の増田についたブコメでよりダイレクトにそのコンセプトを述べているものもあった。「"弱者"男性」というのは男性というだけで強者と決めつけて批判するフェミニズムへのカウンターだと言うのだ。これはルーツに関するソース付きの議論ではないけれど「弱者」 + 「男性」という語構成はそういうことだと理解すると腑に落ちる。より広義に言うと、社会的マイノリティに寄り添う言葉は多く持つ一方で、個別の事情に関わらずマジョリティとされる男性には寄り添う言葉を持たないようないわゆる「リベラル」についての不信感がそのコアにあると読み取ることができるのだ。このように理解すれば、「弱者男性」という用語が非常に高い確率で「フェミ」や「リベラル」への批判とセットで用いられることへの納得感も出る。
ただ、漫画やアニメやゲーム等の二次元コンテンツに触れながら余生を生きていければ、それで良いなと言うのが正直な気持ちです。
しかし残念ながらそうした二次元コンテンツは昨今幾度も炎上を経験しており、時には好きな作品がその対象に成る事も有ります。
フェミニズムと「弱者男性」のコンフリクトの具体例としては、Twitterで度々炎上する二次元コンテンツへのフェミニズムからの批判が挙げられるだろう。
客観的な要件と思われるもの
上述の観点がコアコンセプトと思われるため、上の増田のように「結局「弱者男性」って誰なんだよ」と「弱者男性」の客観的定義を求めたくなるのは、実は「弱者男性」の本質ではないとも言える。その一方で、私がこれまで観測して来た議論に基づいて客観的要件と思われるものを挙げると
- 経済的弱者であること
- (経済的弱者であることと関連して)家庭を持てないこと
- そのような状態を一定以上不幸に感じていること
これらの観点が重要と思われるけれど、個人差が大きくあり、「弱者男性」の具体的状態については上の範疇に留まらないと理解すべきだろう。家庭を持つことについては諦めている議論と諦めていない議論(その極端なものが「あてがえ論」)が両方とも弱者男性論として観測される点に注意が必要だ。
男性学は「弱者男性論」的関心をどう扱って来たか
フェミニズムとのコンフリクト
「男性学」がフェミニズムの影響から独り立ちできずに足踏みしている間に、男性の問題を解決するのではなく溜飲を下げさせることを目的としたネット言論「弱者男性論」の跋扈を許してしまったという経緯。「女叩き」では幸せになれない理由。明解だ。https://t.co/Xr4tEc1ZqA
— ジロウ (@jiro6663) 2021年4月4日
冒頭のクリッツァ―さんの記事では男性学が脱規範的議論に終始して*3弱者男性を具体的に救う議論をしていないことと、今後して行く必要があることが述べられているけれど、弱者男性論の本質が個別の弱者的状況よりもフェミニズムとのコンフリクトにあるとしたら、これは男性学が日本での発足当初から主要な問題意識として考えて来たテーマと言える(しかし、後からも述べるように、その前提が弱者男性論とは大きく異る)。
上野千鶴子さんが男性学について「フェミニズム以後の男性の自己省察であり、したがってフェミニズムの当の産物である」とした上で、「男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である」と定義しているように*4、男性学はその発足からして「男性はフェミニズムとどう向き合うべきか」という問題意識を主要なテーマの一つとして来た。
女性の性被害やDV被害を告発する#MeToo運動が二〇一七年に起きたが、被害を訴える女性に対し、被害を矮小化・無化する二次加害、女性の運動家や政治家に対する中傷・脅迫的なメッセージを送りつけるジェンダー・トローリング(gender trolling)など、バックラッシュの再燃とも言える現状がある。それは何事もなく暮らしてきた、もしくはジェンダーとはまた別の理由で不遇な状況を生きてきた男性たちが、突如「加害者」「抑圧者」として引きずり出され、その際に生じた抵抗感や不安、恐怖といったネガティブな感情に対処しきれず、過剰な防衛として加害に転じてしまう動態を示しているのかもしれない。女性から申し立てられた際の男性の脆さが、そこには現出している。
尾崎俊也・西井開「とまどいを抱える」
最近の動向で言うと、メンズリブ団体の「ぼくらの非モテ研究会」を主催する西井さんとその友人の尾崎さんが「とまどい」という用語でフェミニズムの訴えに触れたときに男性に生じるコンフリクトに注目している。「何事もなく暮らしてきた、もしくはジェンダーとはまた別の理由で不遇な状況を生きてきた男性たちが、突如「加害者」「抑圧者」として引きずり出され」はかなり弱者男性論の文脈に近い言及と読めるだろう。ただし、上の引用部分を見ても分かるように、フェミニズム支持の価値観の元、弱者男性論的現象に対して批判的な視点で書かれているため、弱者男性論と注目するテーマに一致は見られても、前提とする価値観に決定的な対立があると言える。この価値観の対立は上の議論に限らず、男性学の議論全般にあてはまるものだ。
男性の強者性は一枚岩ではない
弱者男性論は男性すべてが「強者」ではないと訴えるけれど、男性学においても男性が一枚岩の強者でないことは、主にコンネル(Raewyn Connell)の「ヘゲモニックな(覇権的)男性性」という概念の応用として論じられて来た。
コンネルは「どんなときでもある一つの形式の男性性が他の男性性よりも文化的に優位にある」として、これをアントニオ・グラムシの議論に依拠して「ヘゲモニックな男性性」と名付ける。一方、「従属的な男性性」は「男性集団のなかでの支配―従属の特定のジェンダー関係」において最下層に位置づけられているものを指す。次に「共犯的な男性性」は「家父長制の最前線部隊になることなくその利益配当を受けるような形で構築される男性性」、つまりヘゲモニックな男性性を体現せずに家父長制の利益配当を受けるような男性性のあり方を指す。コンネルによれば、「(男性性の)ヘゲモニックなパターンを厳密に実践している男性の数は極めて少ない」にもかかわらず、多くの男性が「全体的な女性の従属から生まれる男性一般の特権」を受けている。そして、コンネルは「エスニック・マイノリティのような搾取あるいは抑圧された集団のなかで生み出される男性性」を「周縁化された男性性」と呼ぶ。この周縁化された男性性は「ヘゲモニックな男性性と多くの特徴を共有しているが、社会的に脱―権威化されている」点が異なる。
ただし、このコンネルの議論で言うと「弱者男性」は「周縁化された男性性」よりも「共犯的な男性性」に近く、「ヘゲモニックな男性性」とともに女性を従属させ男性特権を享受する層ということになると思うので、この理論に基づいて「弱者男性」に寄り添うような議論を展開することは難しい。
以上見て来たように、男性学は弱者男性論の関心と共通する対象を論じて来たけれど、その前提とするフェミニズム支持の価値観に弱者男性論との決定的な対立があるため、弱者男性論には活用しづらいと言えそうだ。
弱者男性論の今後への提言
以上は弱者男性論を取り巻く状況の整理で、ここからは私の見解を書きたい。政治・経済の観点による問題解決は重要と思われるけれど、私は詳しくないのでこの記事では触れない。
Twitterアルファ論客主導の弱者男性論からの脱却
クリッツァ―さんの記事内での「弱者男性論」のように、ただ「弱者男性論」と言ったときに現状で最も想起される可能性が高いのはTwitterのアルファ論客が語っているところの弱者男性論だろう。しかし、実際には弱者男性論への関心はそこに留まらないことが今回の一連の増田やブコメによって示唆された。
ブコメで自分の心情を整理して吐露したり、極端な意見には「弱者男性の代表みたいな態度してそんなことは書かないでくれ」と異議申し立てをしたりと、色々と頑張って建設的な話に持ってこうと頑張っているのだが、すぐに疲れてしまう。
でも、黙ってしまっては、人と人との対立を煽るだけの極端な言論だけが残ってしまうだろう。
それだけはどうにも嫌で……もう少し書こうかなと……もう少しだけ頑張ろうかなと、そう思う。
この増田のように「そうでないもの」を語ろうとする試みを私は支持したい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700910536080896130/comment/ueno_neco
そもそもの問題として、「弱者男性」や「キモくて金のないおっさん(KKO)」という用語にはあまりにも女性への人権侵害的な言説のイメージが強いので、ueno_necoさんの言うように「弱者男性とかKKOという言葉や概念は解体」し、この用語を敢えて使わずに自身の関心を正確に語る試みがなされても良いと思う。
また、はてなブックマークのブコメははてブユーザー以外からは参照しづらく、短文では論点が不明瞭なので、往年のはてな非モテ論壇の盛り上がりの再来は望めないとしても、もう少しブログ等でまとまった文章で論じる人が増えても良い気がする。
コミュニティの可能性
弱者男性同士の遊びのコミュニティに参加しているという話が肯定的に受け止められているのは希望がある。
まとめ
弱者男性論は非常に現代的な関心で、既存の男性学やメンズリブでは、主にフェミニズムに対する価値観の相違を原因としてその問題意識に十分に応えることができない可能性がある。弱者男性論にはTwitterの議論でイメージされるような極端な反動的アンチフェミ言説に留まらない関心が含まれていることが示唆されるため、今後の展開を注視したい。
2021/05/25追記
この記事を投稿後も弱者男性論言説の観測を継続している。
この記事の段階では気づいていなかった問題意識を踏まえて、上のポッドキャスト*5で整理して話してみた。こちらの内容も記事化するのが望ましいけれど、複雑な論点を含む話題のため、ただちに文章化するのは難しそうだ。
簡単に要点だけ書くと、この記事では「フェミニズムとのコンフリクト」が弱者男性論のコアだとしたけれど、現在では「男性の苦境についても「リベラル」がマイノリティを扱うのと同様に配慮して語って欲しい」がそのコアだと認識している。ただし前者の観点が存在しないという訳でもなく、問題意識に個人差が大きいため、弱者男性論を統一的に理解するのはそもそも難しいのかも知れない。
リベラルな非モテ論に共感できない理由 ―絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の相克―
リベラルな非モテ論への反発
小野ほりでいさんの記事を読んで、以前から「リベラル(親フェミニズム的)な非モテ論」のアプローチを理性では理解しつつも自身の過去の非モテ経験に照らし合わせて反発を感じる部分があった私は、何か反論のようなものを書きたい気持ちがあった。一方で、そういう観点で記事を書き始めたら意外に論点が深くなったので、私の非モテ論のコアにある「絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の乖離による苦しみ」という考え方を用いて各種非モテ論を整理しつつ、何故「リベラルな非モテ論」には共感できないのかを考えたい。当事者性を抜きにこの問題を語ることは不可能という立場から、この記事では「非モテ」と言ったときに「交際経験が一度もないが潜在的に恋愛を経験したい欲望のあるヘテロ男性」を主な対象として想定している。
絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の乖離による苦しみ
恋愛に強烈な苦手意識を持つ非モテは、自身が恋愛を経験することは絶対に不可能だという意識に自覚的または無自覚的に束縛されている。その一方で、潜在的に恋愛を経験してみたい欲望がある非モテにとっては、身の周りのあらゆる異性に恋愛可能性を見てしまう。この絶対的な恋愛不可能性と抑え難く感じてしまう恋愛可能性の乖離が(過去の私のような)非モテの苦しみのコアだと解釈できる。
恋愛を経験するという最もシンプルかつ効果的な解法
こういった苦しみの最もシンプルな解決法は、普通に交際を経験することだろう。性的パートナーができれば、世の中に広く流通する性的パートナーは一人までというモノアモリー規範によって、身の周りの異性に恋愛可能性を想定せずに済むようになり、恋愛は可能であって、かつ無限に恋愛可能性を見出すことはしなくて良いという苦しみのない境地に辿り着くことができる。
非モテに恋愛を経験させるというアプローチでは、非モテ特有の恋愛に不向きな認知を矯正するという観点が重視される。具体例としては、反リベラル的なものでは藤沢数希の「恋愛工学」のような非モテ向けの味付けがされたPUA、ナンパ論があり、そうでないものとしては、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』*1や森岡正博『草食系男子の恋愛学』*2などがある。
ちなみに私自身もこのアプローチで非モテ(であった過去の自分の)救済を熱心に考えていた時期があった。
恋愛可能性を放棄する非モテ論
自らの恋愛可能性をどのように放棄するか、また、抑え難い恋愛への欲求に抵抗して確かに放棄できたとどのように自身を納得させるかという難題に対して、非モテ論の先人は知恵を凝らして来た。
MGTOWとブッダ
完全に自分はMGTOWだとわかっている男性は、女性との関係をすべて避けている。それは短期間でも、長期間でも、恋愛においても言える。そういう人は結局、社会そのものを避けている。
彼等は古今東西あらゆる偉人が残した「女性とは関わるべきではない」という思想・言葉を漁り、それをミグタウの起源として主張しているのだ。
彼等は「ミグタウは人間社会において消える事のない火であり、近年それにフェミニズムがガソリンをかけて燃え広がった」と主張している。
近年の動きでまず注目すべきは、ダイレクトに恋愛可能性を放棄するMGTOWだろう。また、reiさんの記事で触れられているように、ブッダもMGTOWに近い発言を原始仏典『スッタニパータ』に残している。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。
「犀の角のようにただ独り歩め」がMGTOW(Men Going Their Own Way)と酷似している点と言い、女性を糞尿に喩える現代的視点からは極めて女性蔑視的な言及と言い、あまりにも現代のMGTOWそのもので驚くほどだ。
二次元(非リアル)への欲望の転換
恋愛資本主義社会では、女はモテない男にちやほやされる存在だ。女自体が「商品」なのだから。いかにモテない男から金品を収奪し、自分のために大量に消費をさせるかが、女の「商品価値」をはかるバロメーターなのだ。恋愛資本主義においては女は(若くて綺麗なうちは)「強者」かつ「勝者」であり続けられるのだ。だが、オタク界は、男だけで成立しており、女は脳内の萌えキャラで代替されている。オタクにとっては、三次元の面倒臭い女よりも、二次元キャラのほうが「萌える」のだ。故に、たいていのオタクは三次元の女に対し、恋愛資本主義のお約束となっている奉仕活動を行わないし、彼女たちの機嫌も取らない。男だけ、自分だけで自足している。
今となってはかなり昔感もあるけれど、日本における非モテ論の代表的存在の一つとされる本田透の『電波男』は、二次元のキャラクターを恋愛対象とすることによって、リアル(三次元)の女性への恋愛可能性を放棄する議論と解釈できる。本田透の議論でもまた、上に引用した部分のように恋愛資本主義批判にかこつけた女性蔑視的な言及が多用されている点に注目したい。
ウエルベック系非モテ論の隆盛
ここまで見て来たのは、直接的にリアルでの恋愛可能性を放棄する非モテ論だけれど、恋愛可能性を放棄する非モテ論の亜種として、近年強い影響力を持つ「ウエルベック系非モテ論」と私が認識している非モテ論がある。
ウエルベックの『服従』は、2022年のフランスにイスラーム政権が成立する小説だけれど、非モテ論的観点に絞って引用したい。以下は、イスラーム政権に降るように主人公を勧誘する役回りのルディジェとの会話だ。
「(中略)(筆者注:主人公が結婚相手を)本当に選びたいと思っているのですか」
「それについては……ええ。そう思います」
「それは幻想ではないでしょうか。あらゆる男性が、選ばなければならない状況に置かれたら、まったく同じ選択をします。それが多くの文明、そしてイスラーム文明において仲人を作り出してきた理由です。この職業は大変重要で、多くの経験を積んだ賢い女性だけに限られた職業です。彼女たちは無論、女性として、裸の若い女性たちを見て、一種の価値評価をし、各人の身体と、未来の夫の社会的地位とを関係づけます。あなたのケースについて言えば、あなたはご不満に思うことはないと思いますよ……」
(小説内の架空の)イスラーム社会では社会的地位に応じて半自動的に身体的に魅力的な女性があてがわれると言うのだ。そしてこの発想は日本のTwitterを中心とした非モテ論に大きな影響を与えている。
そりゃそうでしょ。テポ東や、エタ風さんのネタ元がウェルベックで、テラケイは、その二人からパクってるだけなんだから、元を辿ればウェルベックに似るだろうね。
「アンチフェミは女をあてがえと言ってる」というの、全くそのとおりだしそれの何が悪いのかさっぱり僕にはわからない。
— 島本 (@pannacottaso_v2) 2017年6月18日
https://twitter.com/99mina_jeju/status/969561509465440257
流石に「女をあてがえ」と明示的に主張するのはテポ東さんくらいと思われるけれど、非モテ論の文脈で「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」として「(架空の)昭和のお見合い結婚文化」がユートピア的に持ち出されることは多い。
https://note.com/sumomodane/n/nda55d2cf494e
また、大量の統計をいかがわしく活用することで有名なすももさんなど、主に「女性の上方婚志向」への批判を軸としてリベラルやフェミニズムの欺瞞を指摘するネット論客もこのウエルベック系非モテ論の一種と解釈できる。
現在この系統の議論を得意とするTwitterのアルファ、準アルファのアカウントは非常に多く、今の日本のネットで最も広く流通し、勢いがあるのはこの系統の非モテ論だと言えるだろう。
私がこれらの議論を「恋愛可能性を放棄する非モテ論の亜種」と述べたのは、まず「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」を希求するのは自由恋愛を忌避する欲求に基づくことと、これらの議論を支持する人々の多くが言葉とは裏腹に本当に女性があてがわれる保守的な社会の実現を求めている訳ではなさそうという点にある。と言うのも、フェミニズムやリベラルの欺瞞を指摘するための言い回しは熱心に工夫する一方で、フェミニズムのように権利運動レベルで保守的な社会の実現に向けて活動している人はほぼ存在しないように見えるからだ。自由恋愛可能性を否定するフィクションとして、「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」をある種現実逃避的に求めているのがその本質ではないだろうか。
フェミニズムと非モテの相性の悪さ
必ずしも私に網羅的な非モテ論の知識がある訳ではないけれど、これまで見て来たように、広く支持される非モテ論の多くと女性蔑視的言及には半ば必然とも言えるような関係があるように見える。
その一方で、そのことが必ずしも非モテ男性の多くが反フェミニズム的思想を持っていることの証左にはならない。自身の恋愛可能性を抑圧する非モテは、非モテ論にわざわざコミットしたいと思わないケースも多いだろう。私の場合は非モテ時代から一貫してリベラル、フェミニズム支持の立場だった。
しかし、今非モテ時代の自分を振り返ってみても、フェミニズムの知識は非モテ意識のこじらせを強化する効果を持っていたように思う。上の赤木さんや琵琶さざなみさんの議論は相当極端に書かれているように見えるけれど、これに近い錯誤は当時の私にもあった。実際の女性とのコミュニケーションがまともに出来ていない状態でフェミニズムの知識だけがあって、そのことが頭でっかちで痛々しい認知の歪みを生じさせていたのだ。
リベラルな非モテ論に共感できない理由
さて、長大な前置きを書いて来て、やっとタイトルの本題に入る。ここまで触れて来なかったけれど、リベラルの立場からも「恋愛可能性を放棄する非モテ論」を構想することが可能だ。
ジェンダー論やフェミニズムは「女性が男性から」自立するという視点で繰り広げられるが、これは同時になぜ男性が女性から自立することができないのかという問題でもある。男たちには、「他者を介して」しか幸福になることを許されない呪いがかけられているのだ。
リベラルな非モテ論は、フェミニズムのジェンダー論を応用して、非モテの欲望の相対化、脱自然化を試みる。それは典型的には、非モテの苦しみを「男性ジェンダー(男らしさ)の呪縛」として解釈したり、異性愛中心主義(ヘテロセクシズム)の内面化を批判したりするなど、非モテの苦しみの原因を保守的ジェンダー規範の抑圧に求める議論になる。
私が自身リベラル、フェミニズム支持の立場でありながらこういった非モテ論に共感できないのは、端的に非モテ当事者の立場を軽視しているように感じるからだ。現にTwitterで小野ほりでいさんの記事への言及を検索すると、記事に強く反発する非モテ当事者の声が多くヒットする。
これは実質的でない社会規範としての判断になる訳だけれど、この規範の主体が「家父長制」であるという感覚がよく分からない。私には、恋愛や結婚文化に正常にライドしている人間をまともと見做す価値観は、「社会の多数派を形成するごく普通の男性と女性」によって保たれているように見える。
— 環 (@fuyu77) 2018年11月5日
1. 恋愛規範や家族規範は強力な社会規範として機能している
— 環 (@fuyu77) 2018年11月5日
2. 実際に恋愛や家族が普遍的な価値を持つ場合もある
この2つの観点から、非モテ個人に恋愛規範や家族規範からの脱却を迫る言説は筋が悪いというか、苦行の要求っぽさがあると思っている。
*3オルタナティブな選択というのは、「恋愛も結婚もやろうと思えばできるが、今の自分の状態を主体的に判断した結果、他の選択肢が望ましい」という場合スッキリと機能するけれど、「本当は恋愛も結婚もしたいが、そこに至る具体的プロセスがまったく見えない。諦めるしかない」ではやはりつらいのでは。
— 環 (@fuyu77) 2018年11月5日
そもそも非モテが脱規範的生き方を望んでいるという前提がまったくないのに、コミュニケーションに対する足場も固まっていない非モテに脱規範的な生き方を要請するのは、脱規範的生き方を抑圧下の逃避ではなく主体的に選択できる立場からの押し付けではないだろうか。
ではどうすれば…
これまで見て来たように、「非モテが恋愛を経験すること」と「女性の人権を尊重すること」の両立には何か決定的な相性の悪さがあるように思えて、この点を上手く解消できる理論については私も相当な時間を割いて思索して来たけれど、これだと言えるほどの解は未だに得られていない。
https://t.co/jX3X6Xtd8L
— 烏蛇 (@crowserpent) 2017年8月20日
こと「恋愛」においては、そういう価値観を持ってる人は相当数居ると思うんだよね。「幸運(で得た恋愛)は努力(で得た恋愛)に勝る」 というような。
ただ厄介なのは、そういう人はおそらく「幸運」を「幸運」として語りたがらないってこと。
— 烏蛇 (@crowserpent) 2017年8月20日
「恋愛」にやたら「人格」とか「人間的成熟」とかが持ち出されるのは、「偶然性」を誤魔化す(見なかったことにする)って側面があるんじゃないかな。
特に何か明快な答えという訳ではないけれど、私は烏蛇さんの「幸運(確率)」を評価する考え方が好きだ。確率、幸運、そういうもので人生が大きく動くということは往々にしてある。ありのままの欲望を受け容れることができれば、あるいは。
『モテないけど生きてます』 ―現代メンズリブの実践をマクロかつミクロに紹介する良書―
メンズリブ実践の仲間で交流のある西井開さんが本を出版したので、どういった魅力のある本なのか紹介したい。
現代メンズリブの実践を包括的に学べる良書
『モテないけど生きてます』はおそらくマーケティングを意識したタイトルで、中身は西井さんの主催する「ぼくらの非モテ研究会(非モテ研)」の活動の詳細と、非モテ研の実践のベースにあるメンズリブ(メンズリブ研究会)や当事者研究(べてるの家)、薬物依存者支援(三重ダルク)やDV加害者支援(メンズサポートルーム大阪)の様々な実践や手法を専門的な観点で紹介する手堅い作りになっている。実のところ非モテ研はいわゆる「非モテ」についての団体というよりは標準的なメンズリブ団体としての側面が強いので、現代メンズリブの実践に関心のある読者にとって興味深い本になっていると思う。
本書で特に面白いのは、非モテ研における当事者研究の実態を披露している部分だろう。下のように、西井さん以外の非モテ研メンバーも参加する複数の紹介方法を採用することによって、ただ西井さんの文章だけで説明するのでは伝わって来ない臨場感ある当事者研究の実態に触れられる工夫がなされている。
- 西井さんによる自身の当事者研究の実践の紹介
- 西井さん以外の参加者による自身の当事者研究の実践の紹介
- 西井さんを聞き手とした参加者との当事者研究的対話の紹介
- 非モテ研と関連して制作した作品(短歌、彫刻)の紹介
- 西井さんと参加者の間で発生したすれ違い的不和とそこから和解にいたるエピソードを二者の内面を交互に取り上げる形で紹介
- 非モテ研メンバー9人による対談
メンズリブのコアな持ち味である参加型の活動・コミュニティとしてのアクティブな魅力はこれまでのメンズリブ関連書籍からは今ひとつ伝わって来なかった部分なので、こういった工夫が見られるのは嬉しい。また、個々の実践において、本書の中で紹介されている当事者研究等の専門的手法が実際に有効に働いたエピソードも挟まれていて、各種専門領域に関するマクロな知識がミクロな実践に確かに活かされていることも読者の視点で理解できるようになっている。
本書の末尾に「解説 語りだした男たちに乾杯」として立命館大学教授の村本邦子さんがフェミニズム的観点から非モテ研を評価する文章を載せているのも、フェミニズムと連携しつつ男性ジェンダーの問題を考えるメンズリブの立場を明確にし、全体の印象を引き締める効果がある。
ともすればどうでも良い内輪の馴れ合いを読まされるお寒い同人誌のようになってしまうリスクのあるテーマを、構成の工夫と専門的観点の適度な導入によって、気取り過ぎず、ゆる過ぎずの絶妙なバランスに仕上げて、現代メンズリブ実践の入門書として広くオススメできる内容になっていると感じた。
シーライオニングの主体がアシカなのはマイノリティへの迫害ではという疑念についての原作者見解を読む
Sealioning (シーライオニング)という単語が誕生するきっかけとなった漫画を訳してみました。
— あんな (@annaPHd9pj) 2020年6月11日
シーライオニングとは:本当は理解する気がさらさらないのに『理解したいので教えてください。』と丁寧な姿勢を示しつつ不誠実な質問を繰り返して相手に時間を無駄にさせて、疲弊させるハラスメント。 pic.twitter.com/qRqk7gkzgc
「シーライオニング」というのは以前からそれなりの頻度で目にする用語ではあったけれど、元ネタ漫画"The Terrible Sea Lion"の翻訳ツイートが拡散されたことで最近また大きく話題になった。
アシカの扱いの不可解さ
シーライオニングの元ネタ漫画、シーライオン(アシカ)は明らかに人間に対してマイノリティなのでシーライオン嫌悪に対して多少ウザ絡みしてもそれを咎めるのはトーン・ポリシングでは?とか考え始めると深いような深くないような…。
— 環 (@fuyu77) 2020年7月12日
元ネタ漫画を読んで、なかなか痛快でユーモラスな風刺と感じつつも、アシカが理不尽な攻撃を受けているのでは?という印象が若干あるのが気になった。
これアレじゃないんでしょうか、noteのみなさんにどこまで伝わるのかあれなんですが、ツイッターでいうところのスルメロック先生的なあれというか、むしろそうした社会運動を嫌悪する人たちに寄った漫画に見えるんですが。
言うなれば、僕はこの漫画を読んだ時に、そこに「マジョリティ(人間かつ貴族)がマイノリティ(言葉を発するアシカ)に対し嫌悪感を表明し、しかもそのことに一切反省すらしない」という描写を受け取ったのです。
まず、そもそもなぜアシカがやってることがリベラルやラディカルにとっては擁護されるべきことなのか。それは、アシカのやっていることが、まさしくリベラルやラディカルが理想とする「非暴力直接行動」だからです。
この疑念により踏み込んで、漫画の内容は非リベラル的という観点で批判するのが上のCDBさんとあままこさんの記事だ。
しかしこれはこれで何か極端なこじつけのようなものを感じてしまう部分もある。確かに反権力の立場の人々はときにマジョリティにとって手痛く感じるような、敢えて悪い言い方をすると「面倒臭い」主張・運動を展開することがある。しかし、それはこの漫画のアシカのようなスタイルだろうかと言えば、そういう印象はまったくない。このアシカには切実性がなく、非当事者的で、より端的に言うとTwitterにいるような詭弁的話法を得意とするネット論客の姿そのままで、これを反権力側の「非暴力直接行動」になぞらえるのは解釈上あまりにも無理があるように思われるのだ。
しかしそうなるとますますこの漫画の解釈が分からなくなって来る。多重な読みを許容して深い作りになるということはあるけれど、そもそもこの漫画のタイトルが"The Terrible Sea Lion"であることを鑑みても今回はそれが不可解なノイズになっているようにしか思えないのだ。
作者の見解
そんな中、原作ページにあるリンクを追ってみたらこの漫画について、2014年の発表時点で似たような批判が起きていたことと、作者のDavid Malkiがその批判に対して明確にコメントしていることを知った。
Malkiは、漫画でのアシカの扱いが人種等の属性への偏見に類似するという批判があることを示唆した上で、次のように語る(翻訳は筆者によるもの)。
But often, in satire such as this, elements are employed to stand in for other, different objects or concepts. Using animals for this purpose has the effect of allowing the point (which usually is about behavior) to stand unencumbered by the connotations that might be suggested if a person is portrayed in that role — because all people are members of some social group or other, even if said group identity is not germane to the point being made.
しかししばしば、このような風刺では、要素はその他の異なる対象やコンセプトの代理として用いられる。このような目的で動物を使うことは、そのような役割で人間が描かれた場合に示唆され得る意味合いに妨げられることなく、(たいていは態度・振る舞いについての)話の要点を際立たせる効果を持つ ― 何故ならすべての人間は何らかの社会的集団のメンバーであり、たとえ集団的アイデンティティは今回の話の要点とは無縁だと言ったとしてもそれはそういうものだからだ。
Such is the case with this comic. The sea lion character is not meant to represent actual sea lions, or any actual animal. It is meant as a metaphorical stand-in for human beings that display certain behaviors. Since behaviors are the result of choice, I would assert that the woman’s objection to sea lions — which, if the metaphor is understood, is read as actually an objection to human beings who exhibit certain behaviors — is not analogous to a prejudice based on race, species, or other immutable characteristics.
それはこの漫画にもあてはまる。アシカのキャラクターは現実のアシカやその他の現実の動物を表すことを意図しない。それは特定の振る舞いをする人間の比喩的な代理を意図している。それ故一連の振る舞いは選択の結果であり、女性のアシカへの抗議は ― この比喩が実際には特定の振る舞いをする人間への抗議であると理解され、読まれるならば ― 人種や種族やその他の変更できない性質に基づく偏見と類似するようなものではないと私は主張したい。
つまり、発表当時もCDBさんやあままこさんのような読まれ方はしたけれど、Malkiとしてはあくまでも話の要点は人間の振る舞いへの風刺であり、アシカであることは人間の行為にフォーカスするための風刺漫画上の技法に過ぎないと言うのだ。
ネットの新概念「シーライオニング」の元ネタ漫画は本当にリベラルな文脈で描かれているのか?という疑念|CDBの七紙草子|noteこのマンガ、アシカ的な行為(過剰な粘着)にフォーカスするために女性の発言を意味不明な暴論にまで抽象化してるのであって、女性の発言の意味を現実の言論に当てはめた解釈は別の建物でやる議論なんじゃないか。
2020/07/15 08:31
teebeeteeさんのブコメもMalkiが述べるのに近い解釈を書いている。
またこちらの記事では発表当時の反響が紹介されていて、当時からゲーマーゲート論争での女性への嫌がらせを「シーライオニング」と呼ぶ文脈があったことが分かる。
Some people are calling the lady in the sea lion comic a SEA LION RACIST and saying she deserves to be challenged and confronted!
— David Malki ! (@malki) 2014年10月3日
このツイートは「漫画の女性キャラを「シーライオン・レイシスト」と呼び糾弾に値すると言う人々がいる!ワロタ」というニュアンスだろうか。
まとめ
ここまで見て来て、Malkiの
- 風刺対象はあくまでも人間の特定の振る舞い
- アシカなのは風刺漫画の表現技法上の要請
という明確な意図が明らかになった。確かにこのキャラがアシカでなかったら…と想像すると、風刺漫画としての滑稽味においてアシカは最善に近い選択に見える。
とは言え作品の読解において作者の意図はすべてではないし、CDBさんやあままこさんのような批判が入る余地もあるとは思う。
個人的には初見でのモヤモヤとした解釈のノイズが、作者の意図しない偶発的なものであったことが確認できてスッキリした気持ちだ。
Pornhubのコロナ応援無料トライアルキャンペーンに興味本位で登録したら悪質な抱き合わせ契約にハメ込まれて1万円カモられた話
タイトルの通り非常に恥ずかしく情けない話なのだけれど、ブロガーとして書かない訳にはいかないと思った。
有料プランの付加価値は低い
PornHubの有料プランは無料サイトとどういう差があるのか分からないくらい付加価値が低く、すぐに退会処理をして、まあこんなものかと終わったつもりでいた。
クレジットカード利用明細に不審な請求が
これも今回の件で後悔したことだけれど、私は毎月クレジットカードの利用明細を確認していなかった。
Pornhub有料プラン退会の2か月後にクレジットカードの利用明細を確認すると身に覚えのない請求が…。
MBI*PROBILLER.COMから39.97$の請求。いかにも怪しい。これが毎月3日の2か月分で1万円弱だ。
意図せず抱き合わせ契約にハメ込まれていた
https://www.e-honba.com/cancel/mbi-probiller
また課金が止まらないということは、退会処理をしたにも関わらず課金され続けていると思うのですが、おそらく抱き合わせ販売の分が
課金され続けているのだと思います。(抱き合わせを一緒に購入してしまうと別途退会する必要があるため)
当初不正請求かと思ったけれど、MBI*PROBILLER.COMというのはクレジットカード決済代行会社で、問題の本質はPornhubの有料プラントライアル申し込み時に意図せずBrazzersというポルノサイトの有料プランも同時に契約させられていたことにある。
今でもBrazzersに同時契約する旨の表示がどこにあったのかまったく覚えていないのだけれど、おそらく非常に目立たない形で書いてあったのだろう。
Brazzersの退会方法
Brazzersのサイトを詳しく見ても有料プランの退会方法は非常に分かりづらい。退会方法としては、上のリンク先からアカウント情報を入力して退会する。実際に退会完了するまでに入力フォームから5画面くらい遷移があり、非常に分かりづらい表示で何とか退会を阻止しようとしてくるので、慎重に先に進むボタンを押して、Probillerから退会完了のメールが届いたら退会完了だ。
得られた教訓
- どんなに有名でも海外の有料ポルノサイトはこのように詐欺まがいの手法で稼ごうとしているので、絶対に有料プランに申し込んではいけない
- クレジットカードの利用明細は毎月確認すべき
- タダより怖いものはない
岡村記事振り返り ―誤解釈があった部分の整理と次回放送を聴いて―
前回の記事、はてブが沢山ついてフィードバックを多く貰ったけれど、今になって思うと一部誤解釈もあったので次回放送内容も踏まえつつ振り返ってみたい。
主要な解釈の間違い
まず全体的な趣旨の解釈として、矢部さんは殺伐とした炎上騒動をコンテンツ/ショー化された「公開説教」に昇華することで、岡村さんを守ることに多くの面で成功した、というものを採用したい。
まずこう書いたけれど、
公開後に確認した記事の「テレビ局関係者」の発言を見るに、矢部さんはかなり素に近い形で日頃から溜まっていた岡村さんへの不満を述べた部分が大きいようだ。私がナインティナインに詳しくなかったことや、「芸能人」に対する先入観があったことが誤解釈につながってしまった。
タイトルの「人の変わらない部分を変える必要はない」について
ブログにはタイトルに突っ込みどころがないと読まれない、タイトルに突っ込みどころがあるとタイトルだけ読まれてディスられるというジレンマがあるけれど、今回の記事も「いや、変わる必要はあるだろ」的なコメントが非常に多かった。
人の変わらない部分を変える必要はない ―ナインティナイン岡村隆史謝罪放送を聴いて― - あなたとあなたの話がしたい
- [blog]
この緩さは大事だと思う。緩さがあるから人は変わっていけもするので。岡村さんの反応の薄さは自分を守るためでもあるように思う。弱者コスプレの言葉があったけど若林とかそこ自認して成長できてる気がする。
2020/05/03 08:15
実のところこの方のコメントが私の感覚に近い。変わること自体が悪いという訳ではなくて、矢部さんの説教は別としてネット炎上のような極端な形で内面改革を強制しようというのはやはり違うだろうと。何か世間の論調として、変化は自発的意思を基礎とすべきという前提が無視されているような方向性を感じたので、その部分に異論を呈しただけで変化そのものを否定したかった訳ではない。
再び矢部さんとコラボした次回放送を聴いて
この回では前回と比べて大分岡村さんがリラックスしていて、冒頭の再謝罪の言葉でも、前回と比べるとかなり状況の整理が進んだ言い回しで、変わる必要についての決意を述べている。
少なくとも公のラジオで喋るプロとしての変化の意思については確かなものがあると見て間違いなさそうだ。
今回は岡村さんが普通に喋っているお蔭で通常のラジオのトークとして面白く聴ける。コンビの2人きりで話す機会も最近はほぼないとか、なかなか複雑な関係性だな、などと如何にもニワカ的な思いを馳せながら聴いていた。
人の変わらない部分を変える必要はない ―ナインティナイン岡村隆史謝罪放送を聴いて―
ナインティナイン岡村さんがセックスワークと貧困に関する不適切発言を謝罪して、矢部さんが「公開説教」した回をradikoのタイムフリーで聴いた感想を書きたい。
矢部さんによる炎上緩和策としての「公開説教」
岡村さんが冒頭から沈痛な様子で謝罪の言葉を述べる中、突如矢部さんが乱入して今日は公開説教しに来たと宣言し、その後はほとんど矢部さん一人の語りが展開される流れだった。
この放送の内容については既にTwitter等で議論されているように様々な切り口で語ることができると思うけれど、私はまず全体的な趣旨の解釈として、矢部さんは殺伐とした炎上騒動をコンテンツ/ショー化された「公開説教」に昇華することで、岡村さんを守ることに多くの面で成功した、というものを採用したい。
そもそも岡村発言の何が悪かったのか
そもそもの前提として、岡村発言の何が悪かったかというのはそこまで簡単な問題ではない。思慮に欠けた不適切な発言というのは誰が見てもそうだけれど、リベラルの原理原則に立つならば、不謹慎だとか、不快だとかいうのはそれだけでは重大な問題ではなく、マイノリティの自由を抑圧する差別性が認められるかどうかが重要だろう。
一次ソースに当たることすらしていない藤田さんの雑な批判記事が起点というのも事態を厄介にしている。私も批判派の見解を読んで勉強はしているけれど、自分の中で岡村発言にどの程度重大な差別性があったのか、という点について納得のある理解に未だ達せられていない。
また、そもそもネット炎上は必ずしも「差別」に関する上に書いたような理解によって起きている訳ではないので、岡村発言の何が非難されているのか、というのは実のところ複雑で難しい問題だ。
そういった背景もあり、岡村さん本人は自分の発言の何が問題だったかということをほとんど理解できておらず、ただ世間の一部が激しく怒っている、反省している様子を見せねば、という曖昧模糊としたリスク回避意識によって、どこか腹落ちしていない様子だけれど、口調のトーンだけは沈痛な感じで謝罪の言葉を並べているという印象だった。
岡村さんを喋らせず逆に自分は無防備に喋る矢部さんの立ち回り
この状態は非常に危うい。ネットの炎上案件において、批判者は謝罪のタイミングで謝罪者の発言の粗を注意深く探し追撃の材料とする。何が悪かったか理解していない謝罪者は失言を重ねてしまう可能性が高い。
かと言ってラジオの枠をすべて空虚な謝罪の言葉で埋めるという訳にも行かないだろう。そこに矢部さんが現れて、ほとんど矢部さん一人が喋る「公開説教」を展開した。しかもガチガチに守りに入っている岡村さんとは対照的に、矢部さんは逆に随分と無防備に発言しているように感じられた。岡村さんだけではなく自身の発言も批判されるリスクについては気にしていないどころか敢えてそのリスクを取りに行っているかのように。
その結果として、放送後は矢部さんの発言は非モテ差別だとかそうじゃないとか、当初の岡村さんへの批判と無関係な部分にネット民の関心を拡散させることに成功している。
「関係性」や「人格」へのフォーカス
放送を通して、岡村さんの女性差別的側面については触れられているけれど、コロナによる不況とセックスワークについての該当発言の何が問題か(あるいは問題でないか)という部分についてはほとんど言及されていない。
その一方で、矢部さんから見た岡村さんとの関係性を、高校のサッカー部での出会いから芸能界での成功、岡村さんの鬱病での離脱、復帰後、と順を追って丁寧に掘り下げつつ、問題の本質は件の発言内容がどうとかということではなく、岡村さんの「根元(人格)」の幼さ、甘えにある、という物語付けを行っている。また岡村さんが不適切な言動を行う際の無意識性、意図しなさについても「天然」という言葉を何度も繰り返して強調している。
このことによって、言葉の言い回し上の不適切性にフォーカスするネット炎上の関心に、岡村さんのバックグラウンドへの想像、共感の文脈を付与することに成功している。
矢部さんが解決策として提案した「結婚」について
矢部さんは自身が結婚、子育てを経験したことによって、女性をリスペクトする気持ちが高まったと語り、岡村さんの「根元」の歪み、女性への忌避意識を変えるために、結婚してみてはどうかと提案する。
ネットでは話が一人歩きしている部分もあるけれど、矢部さんは岡村さんを「非モテ」だとは言っていない。現在進行形で恋人がいる可能性まで言及しつつ、結婚のように責任をもって深く女性と付き合った経験がないことが問題だと言っている。
これは既に方々で激しく議論されているように非常に問題含みの発言だ。
矢部の発言、火消し効果への期待と良識アピールもあるのだろうけど、途中から「結婚しないからこんなことに」的な親戚のおじさんみたいな説教になってて、ホモソーシャルのクズ的発言をホモソーシャルに再回収の図こそ、日本の芸能界の限界だけでなく、「世間」の限界なんだろうなと思った。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2020年5月1日
まずきちんとした水準のフェミニズム理解に基づいて言うのであれば、大野さんの見解が正しいだろう。ホモソーシャルの表れ、恋愛至上主義、家族至上主義、女性の聖女化…批判点はいくらでもある。
上掲の匿名ダイアリー等で議論されている高齢独身男性蔑視の問題もあるだろう。
一方で、女性と相互に信頼する親密な関係を築けた経験によって価値観が変わるというのは普通にあり得そうなことでもあって、かく言う私などもそういう経験をダイレクトに経ている身だ。結婚生活においては「ありがとう」と「ごめんなさい」が大事という話なども含めて、矢部さんのアドバイスはありがちなライフハック程度に捉えるのが良いのかなと思う。
岡村さんへのアドバイスとして有効かどうかは怪しい
では当の岡村さんへの提案としての有効性はどうか。これはかなり怪しい。ラジオを生で聴いてみると、岡村さんはこの矢部さんのアドバイスに対して気持ちの入らない様子で曖昧に部分的に迎合するような応答をしているだけだ。特に感銘を受けている様子も、逆に傷ついている様子も感じ取れない。実際のところはもちろん分からないけれど、放送の印象としては特にやる気を起こさせるようなアドバイスにはなっていないように聴こえた。そもそもの話として矢部さんが岡村さんに対して仕事以外のプライベートの部分が大事なんじゃないかと言ったように、本当に重要な助言は公開のラジオで伝えるものではないだろう。
別に変わらなくても良いのでは
結論として、放送を聴く限りでは矢部さんが岡村さんを変える有効なアドバイスを提供できていたという印象はまったくなかったし、そもそも岡村さんが人格を変える必要もなくないか?と思う。
元の不適切発言については、やはりマイノリティの自由を抑圧するような差別発言を公開するのは良くないという言説の効果に注目すべきで、それをしないのであれば各個人の内面がどうなっているかについては無関係な他人が踏み込んで良い領域ではないと思う。
矢部さんが語る結婚、子育てのような「正常な」ライフコースを辿ることで人として成熟し、生きやすくなるという発想を私は積極的に批判したい立場ではないし、人生にそういう側面は往々にしてあると思うけれど、そういうコースに乗れなかったら乗れなかったでその部分は受け容れてやっていくしかない*2。
放送中に「天然」という言葉が繰り返されたことから示唆されるように、人には絶対に変わらない、変えられない性質もあると思う。その性質が他者にとって無益、あるいは逆に有害だったとしても、そういう部分にも自他ともに適当な折り合いを付けてやっていけたりするのもまた、ありがちな人のあり方ではないだろうか。
追記
[B! 炎上] 人の変わらない部分を変える必要はない ―ナインティナイン岡村隆史謝罪放送を聴いて― - あなたとあなたの話がしたいナイナイがコンビとして続くかどうかの瀬戸際だと認識しろ、誘った側の矢部から解散は言わないが、性格変えないかぎり一緒の仕事はきついって宣言。まあナイナイに興味がなければこのタイトルになるだろうけど。
2020/05/03 06:44
今回ラジオで厳しい言葉を次々とぶつけていたのは驚きましたが、これまで溜まりに溜まっていた矢部さんのホンネなのだと思いました
記事を公開した後に、矢部さんの説教は素の不満に近い的な情報を確認した。
wschldrnさん推察の通り私はナインティナインや芸能界については詳しくないので、その点についてはニワカがこの回の放送の情報だけを元に書いた記事という前提で読んでいただきたい。
記事のタイトルを翻すようだけれど、関係者からしたら変わってくれないと困るというのはありそうかなと思った。