会社員にだけはなれないと思って会社員になるだけの人生だった

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わたしは、幼いころから性格が団体行動に合わなかった。教師や目上の人から指示・命令されると、とにかく反発してしまう子どもだった。幼稚園のころから、お前はサラリーマンにはなれないだろう、と親や教師や近所の人に言われながら育った。だからいつの間にか、サラリーマンという就業を除外して将来のことを考えるようになった。小学校から中学校にかけては、医者になろうと思っていたが、高校で受験勉強を放棄したので医学部の受験はあきらめなければならなかった。今の日本社会では受験勉強をしなければ医師になることはできない。

村上龍が中学生の頃の私と同じような思考をしていて吹く。ただ、私は親に言われたのではなくて、公立中学校でいじめの被害者や加害者になる経験をして「この人たちと一緒には生きていけない」と強く感じたことによる。

村上龍は受験勉強に適応できず医師になれなかったけれど、私は勉強はできたので、医学部に入った。

富山大学医学部

一浪して国立大学の医学部に入って、これで人生に勝ったと思った。しかし現実はまったく甘くなかった。

現在は「富山大学の医学部」だけれど、実態はかつての富山医科薬科大学のままであり、医療系以外の学部との交流は一切ない。

富山大学附属病院薬剤部

上の画像が富山大学の杉谷キャンパス(旧富山医科薬科大学)で、大学の周辺には学生の住むマンションと田んぼしかない。このような隔絶された空間で、一学年105人の医学生との息苦しい大学生活が始まった。

医学生は皆何かしらの体育会系のガチな部活に所属していて(私は管弦楽団でヴァイオリンを弾いていた)、そこでの過去問の共有が、留年を回避するための最低条件になる(専門科目の試験範囲は長大で、まともに勉強して単位を取ることは実質的に不可能となっている)。

医学生は全員顔見知りで、閉鎖環境のため、高校生がやるようないじめも普通にあった(浮いている学生に対してあからさまに聞こえるように陰口を言うなど)。また、解剖学の教授の妻の助教がモンスターで、普通の大学では到底看過されないような恐るべきパワハラを学生に強いていた。

富山は常に曇っていて、夏は蒸し暑く(富山の夏の過酷さは全国でも最高レベルであることは豆知識として覚えておいて欲しい)、冬には雪が人を殺す勢いで降る。富山県民は新潟と金沢に対する劣等感をアイデンティティとしていて、学生もまた、医学生であることの誇りと最底辺国立大学の敗北意識の間で歪んでいた。それは教員もまた同じで、空気は常に淀んでいた。

文学部に入り直して思うのだけれど、医師の子女の価値観は明らかに一般とずれていたと思う。「BMWは硬いから保険と思えば安い」とか良く分からない発想が普通に通用していた。

退学、京都へ

このような生活に私は疲弊し、ある日、
「そうだ京都、行こう。」
と思った。二年生の夏に大学を中退して、半年の受験勉強を経て京都大学文学部に入学する。

とにかく虚学がやりたかった。医学生になってもまったく女性とコミュニケーションできなかったので、もう自分には将来家庭を形成するのは不可能だと判断して、親に寄生しながら研究者として細々と暮らすつもりでいた。

京大は間違いなく全国で最高レベルの学習環境を提供している。教員には学問を愛する天才が揃っていて、附属図書館と各学部の図書館を併せた蔵書のラインナップは学術系の文献で読めないものは無いというレベル。私も一回生の頃はこの環境を生かして学問に励んだ。

子や妻に対する愛着は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上った乳房のある若い女を誘き入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠られない、 ―これは破滅への門である。

この頃の私は、自らが性愛に関わる可能性を完全に否定したことによって、悟りに近い状態になっていて、学業にもサークル活動(短歌会)にも圧倒的なパフォーマンスを発揮していた。しかしこのように獅子奮迅の活躍をしていると微妙にモテてしまう。

一回生の冬にサークルに新しく入って来た女性がいきなり私の部屋に行ってみたいと言い出して、舞い上がった私は自作の料理のフルコースと厳選した日本酒とワインで歓待、もちろん自分から手を出すようなことはせず、その後も色々あって…サークルを辞めることになった(お察し下さい)。

もともとサークル活動と学業へのモチベーション(現代短歌の創作と古典和歌の研究)が連動していたために、小さな綻びによってすべてが崩壊する。二回生と三回生の頃はほとんど大学に行かず引きこもっていた。『ヴァーレントゥーガ』というフリゲ(シナリオ製作機能があり、完成度の高い派生シナリオを多数有する。中でも『光の目』はフリゲの範疇を完全に超えている一大叙事詩なので、戦略SLG好きの方はぜひともプレイしてみて欲しい)にはまってニコ動に実況プレイ動画を投稿したりする。


そして今

去年彼女が出来て、もう一度現実に戻ろうと決意する。25歳。もう普通に就職する意外の選択肢は残されていなかった。

今思えば、「会社員にだけはなれない」というのは、「会社員」に含まれる多様性に一切目を向けないという点で、認知の歪んだ発想だった。

「自分の能力で一人で生きていく」というのも、現実的な考え方ではなかった。人は人に支えられて生きている。この一年恋愛やセクシュアリティについて真剣に考えたことによって、私は幾許かの他者性を回復した。

就職先は名古屋の小さなIT企業。将来のことは何も分からないけれど、とりあえず今、ここで、私が確かに生きているという実感を大切にしたい。