単位とれた!

今日の朝大学の成績開示があった。ギリギリ卒業要件を満たすように受講していたので一つでも落としたら卒業できず内定取消と婚約破棄のコンボで人生終了する状況で、恐怖に胃を痛めながら成績表をダウンロードしたけれど、無事全部通っていて、卒業要件ぴったりの単位数で卒業できることになった。卒業要件140単位中、私が学年別に取得した単位は、

  • 一年生:40単位
  • 二年生:15単位
  • 三年生:18単位
  • 四年生:67単位

こうなっていて、卒業に必要な単位の約半分(そのうち卒論関連が16単位)を今年度に取得したことになる。

そもそもこんな状況になってしまったのは、二年生の秋にサークル(創作系)の偉い先輩とTwitter(今のアカウントとは別のアカウント)で喧嘩して界隈八分を喰らったという何ともアレな経緯で廃人状態に陥ったことが原因で、去年の今頃は躁鬱的な傾向のある引きこもりというかなり悲惨な状態だった。

地元神奈川県の地方都市のとある心療内科にて

流石にこんな状態で就活と卒論と膨大な単位取得をこなすのは不可能と考えて、去年の今頃、地元神奈川の心療内科に行ってみることにした。

待合室に座っていると、診察室の裏の扉を開けて受付にひょいっと先生が頭だけ出して来たのだけれど、その顔を見てギョッとしてしまった。蒼白い肌の女性で、長い黒髪が一筋顔にかかっていて、妖怪にしか見えない。ふと周りを見回してみると、待合室に座っている人たちの挙動も明らかにおかしい。ヤバいところに来てしまったと思った。

将来への絶望的な気持ちに支配されながら診察室に入ると、第一印象とは異なり、先生はユーモアのある明るい語り口で、見開きのノートにメモをとりながら私の話を丁寧に聞いてくれて、

「どうしましょうか。特に治療が必要な状態だとは思いませんが。すごく、まともでいらっしゃるので」
「まとも、ですかね」
「ええ。目を見て話してくださって、塞ぎ込んだりもしてないですし、逆に、ハイになり過ぎているということもなく」

と言ってくれた。「まとも」と言われて何だかすごく安心した気がする(心療内科的なテクニックなのだろうか)。取り敢えず治療は無しで、ヤバくなったら薬を処方して貰う、という方針になった。

自分の力で何とかした訳ではない

結局心療内科にはその後通うこともなく、就活も卒論も単位取得も無事にこなせた訳だけれど、これは自分の力で成し遂げたことではない。私の危機的な状況を知り、母はこの一年間惜しみない援助をしてくれた。私は何事も成し遂げられなかったけれど、他者に支えられているという事実を生まれて初めてまともに認識できるようになった。健康な精神を取り戻した今、母にはいつか恩返し出来たらと感じている。

婚約しました

奈良でプロポーズして来た。

長かった学生生活で学んだことはただ一つ「孤独は人を殺す」ということで、もう独り暮らしは嫌だと、彼女に頼み込んで春から同棲することになったのだけれど、「婚約しなければ娘はやれない」ということで、プロポーズの準備を進めていた。

この一年は遠距離恋愛していたけれど、彼女の出身大学が奈良で、お互いに学生だった頃は、奈良市内、飛鳥、斑鳩など奈良の各地でデートした。

まめすず mamesuzu-sweets.com

告白したのも彼女の行きつけの「まめすず」という小さなカフェだった。

何よりも奈良には奈良ホテルがある。一度泊まってみたかった。この機会を利用しない手はない。

事前にホテルに相談したところ、花束を用意すること、そして何とチャペルを開放することが可能だというのだ。

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メインダイニングルーム「三笠」でフレンチの夕食を食べた後(すごい美味しかった)、館内ツアーという名目で、フロントの方にホテルを一通り案内して貰って、その終りに、

「今なら外にあるチャペルの中をお見せすることが出来ますが、いかがでしょうか」
「お、いいですね。○○も見たいよね」
「え、う、うん(察し)」

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翌朝撮影した聖ラファエル教会

ということで、チャペル(聖ラファエル教会)に案内して貰ったのだけれど、辺りが暗い中、海外の教会から移植したという美しすぎるステンドグラスがキラキラ光っていて、二人で「わー、綺麗だねー」とうっとりと見入った。扉の前まで案内して貰って後は二人っきりでという段取りだった。中に入ると、内装にふんだんに使われた吉野杉の香りが充満していて「いい匂いだね」などと言い合う。中央奥のテーブルに花束が置いてあった。余りにも露骨に置いてあるので見つめ合って笑ってしまう。赤系統を指定して頼んだものだ。

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一通り彼女と教会の装飾を見て周って、奥まで辿り着いて、花束を持ち上げて、ポケットから書いて来た手紙を取り出して花束に添えた。彼女と見つめ合うと、微妙な間が生まれてしまった。プロポーズの台詞は20回くらい練習して来たのだけれど、出て来ない。はにかみながら、

「この二年間付き合って来てすごい楽しかったし、一緒にいるだけでいつも自然と心が温かくなるような、そんな気がして、すごくいい関係だと思うし、これからもずっと大切にしたい。だから」

というような主旨のことを言って、跪いて、

「結婚してください」

と、花束と手紙を差し出した。

受け取る彼女。顔がほんのりと赤くなっていて、ぼやーっとして、心ここにあらずという感じだ。返事がない。気を確かに、と彼女の腕に触れて、

「返事は」
「は、はい」

お互いすごくぎこちなかったけれど、OKということで、軽く抱き合って、それから教会の外に出た。

親の金で買った指輪でプロポーズするのは如何なものかということで、手紙しか用意できなかったけれど、「○○と共に幸せな将来を築いてゆけると確信している」という書き出しから始まるロマンティックフィルター全開の文章は気に入って貰えたようで良かった。

ブラックな職場の彼女に休みを取って貰うために、今日はプロポーズの為の特別な日なんだと元々告げてあって、春から一緒に住む部屋も既に借りてあるので断られるということも絶対になかったのだけれど、奈良ホテルのお蔭でサプライズ感が出せて、彼女も大満足の様子だった。

彼女が激務の中、遠距離恋愛ということで、この一年間危機的な局面もいくつかあったのだけれど、常に丁寧に話をして乗り切ってきた。一緒にいていつも楽しくて、ヤバいときはちゃんと話し合える。お互いに得意な分野が大きく異なるので相補性もある。得難い関係だと思う。私にとって初めての恋愛だったけれど、いきなり最高のパートナーに出会えた。これからも末永くこの関係を育めたらと思う。

Amazonアソシエイトの紹介料が1000円を越えました!

人生一度は書いてみたいアフィカス記事。タイトルの通り、このブログのAmazonアソシエイトの累計紹介料が1000円を越えました!

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このブログの現在の累計アクセス数が104820なので、1アクセスあたり約0.01円の収益率。しょぼい。

Amazonアソシエイトの楽しさ

Amazonアソシエイトは、管理ページでクリック数や売上、売れた商品名を確認できるので、経済を回している感があって楽しい。自分が紹介した本が売れたときは特に嬉しい。

このブログのアフィ方針

ブログ、特にはてなブログでは、アフィリエイターが低劣な記事を量産していることが問題になっている。アクセス数と金に目が眩んだ人間の書く文章は卑しく、何よりもインターネット的ではない。

このブログでは、資料の引用元を明示する場合以外には絶対にAmazonアソシエイトリンクを貼らないようにしている。アフィを導入してもしなくてもAmazonリンクの見た目は変わらないため、Amazonアソシエイトは導入しても構わないと判断した。

セックスがGoogle AdSenseの誘惑から私を守ってくれている

Google AdSenseは最も稼ぎやすいアフィのようで、魅力を感じてしまう気持ちもあるけれど、幸いこのブログには「セックス」のような語彙が大量に使用されている。Google AdSenseの規約に引っ掛かるのは明白で、アフィの魔の手に堕ちる可能性はあらかじめ絶たれている。現在このブログに表示されているGoogle AdSenesの広告ははてなブログにデフォルトで実装されている、私ではなくはてなの収益になるものなので御容赦頂きたい。

包茎分類フローチャート ―「剥けている」のではなく「引っ掛けている」ということ―

「包皮が被っている状態」の男性器を「仮性包茎」などと呼び異常な男性器扱いして、「包皮が被っていない状態」を正常とするのは日本人だけで、白人の男性器は皆「包皮が被っている状態」であることを啓発する記事が投稿された。私も以前、日本の包茎治療の闇について自らの青春時代の包茎治療体験を基に書いたことがある。

元記事はMiyakeさんがジムで白人の男性器を実際に観測した成果をベースにして書かれていて参考になるけれど、日本人男性の性器に対する認識を「包皮が被っている状態」と「包皮が被っていない状態」の二択で語るのはやや雑なように感じる。

白人男性の性器認識

まず、元記事を参考にして白人男性の性器認識を図式化するとこうだ。

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シンプルな把握で、これが性教育的にも正しい認識だ。

日本人男性の性器認識

対して、日本人男性の性器認識を図式化するとこうなる。

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治療が必要な「包茎」をわざわざ「真性包茎」と呼び、欧米では正常な男性器とされる男性器に様々な認識の分岐が見られるが、常時剥けている状態を理想とする方向に関心が働いていることに注目したい。また、点線で示した、手術は受けずに、成長の過程で自然に包皮が退化して亀頭を覆えなくなっている状態の男性器が究極の理想とされるが、果たして実在するものなのか私には未だ確認出来ていない。

亀頭のカリ首に包皮を引っ掛ける日本人男性の所作

包皮除去手術を受けていない日本人男性は、「剥けチン」に見せかける為に「包皮を亀頭のカリ首に引っ掛けて落ちて来ないようにする」という所作を行う。『をのころん』という漫画にその様子が詳しく描かれている。

をのころん (マンサンコミックス)

をのころん (マンサンコミックス)

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アラサーちゃん』でもネタにされている。

アラサーちゃん 無修正2

アラサーちゃん 無修正2

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この包皮を亀頭のカリ首に引っ掛けるパターンにも、『をのころん』にあるような、銭湯など公の場でのみ引っ掛けるタイプと、常に引っ掛けておいてある種のクセが付いた状態でホールドされているタイプのものがある。

何故このような風習が日本でのみ出来上がったのか、まったく謎だ。包茎手術詐欺に嵌まる青少年が後を絶たないので、早急な性教育の充実が求められる。

人の心の花の色は見えるのか ―小野小町「色見えて」歌の清濁説再考―

小野小町「色見えて」歌の清濁説再考  ―「て」と読むか「で」と読むか―」という卒論を提出した。小野小町の「色見えて」歌の清濁説を検討するものだ。論文は実証的なアプローチで書いたけれど、せっかくなので、ブログ的評論形式で研究の意図を紹介してみたい。

色見えてうつろふものは世の中の人の心の花にそありける(『古今集』恋五・七九七・小野小町

この歌について、「色見えて」の「て」を「て」と読むのか、「で」と読むのかという議論がある。

まず前提知識として、『古今集』の短歌のオリジナルは、

いろみえてうつろふものはよのなかのひとのこゝろのはなにそありける

こういう風に、すべて平仮名で書かれていたと考えられている。今残っている写本は、適宜漢字に直されていて、例えば最も信頼性が高いとされる藤原定家自筆の伊達家旧蔵本だと、

色見えてうつろふ物は世中の人の心の花にそ有ける

こういう表記になっている。今重要になってくるのは、こういった仮名文学に濁点が存在しなかったということだ。音声としては当時の日本語にも清濁の区別はあったのだけれど、平仮名の清濁を書き分けることはなかった。こういう表記は現代人にとっては読みづらいので、「色見えて」歌は、現代の本、例えば角川文庫の『古今和歌集』だと、

色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける

(色に現れずにあせてしまうものは、世の中の人の心の花なのであった。)

こういう風に、濁点を振った本文に現代語訳を付けて書かれている。現代語訳を見れば分かるように、「で」というのは打消(「ずして」の転とされる)の助詞で、「色見えで」というのは、色に見えないで、という意味だ。

この現代語訳、いかにもなるほどなという感じで、実際解釈として間違っている訳ではないのだけれど、この歌の本来の魅力はこの現代語訳の内容に留まるものではない。

「て/で」の対応構造

まず、この歌には「人の心」と自然の「花」の対応関係があって、色に見えないでうつろう(気持ちが離れてしまう)「人の心」と読むにしても、

色見えてうつろふものは世の中の(人の心の)花にぞありける
色見えでうつろふものは世の中の人の心(の花)にぞありける

このように、「て」を「花」に対応させると、「色に見えてうつろう花、色に見えないでうつろう人の心」という綺麗な対応構造が見えてくる。

「て」か「で」のどちらかにしか読めない、というのは近代的な発想で、端的に言って短歌のことをまったく分かっていない人間の考え方だ(こういう雑な言い切りが論文でも許されたらいいのに)。この歌の「て」には「て/で」の両義性があると捉えるべきだろう。

上の「花/人の心」の対応構造で良い読みが出来たと満足するのもありなのだけれど、歌の実際の言葉は「人の心の花」、「人の心」と「花」が混然とくっついてることに注目したい。「人の心の花」は色に見えてうつろうものなのか、色に見えないでうつろうものなのか。

恋心のうつろいは色に見えるのか

まず、この歌は『古今集』の恋五に分類されているので、恋の歌だと解釈すると(実はこの歌の内容は恋に限らないのだけれど、ここでは恋の場合を考える)、人の気持ちが離れてゆく様子は「見えるし、見えない」ものなんじゃないか、という感覚がある。恋愛関係にある者同士だったらお互いの気持ちはある程度察せられるものだし、もちろんそれでも全然分からないこともある。そういう恋についての普遍的な二面性が「色見えて/で」に表れている気がする。というのは、もちろん現代的な解釈なのだけれど、実際に調べてみると、『古今集』の平安時代初期の作品にもそういう恋の様子は見てとれることが明らかになってくる……というような感じで、その他様々な角度から、「花/人の心」についての「色見えて/で」の対応だけではなく、「人の心の花」そのものの内部に「色見えて/で」の対応を見出してみた。

Google ドライブ - 1 か所であらゆるファイルを保管

もし読んで下さるという奇特な方がいらっしゃったら、質問、感想、批判等何でも受け付けますので、どうぞよろしくお願いします。

古今集小町歌生成原論』は、大塚英子先生三十五年間の研究成果が詰まった最強の小町本。実証的精神と詩的感性が融合し、これまでの研究が十分に明らかにし得なかった小町作品の重層的な世界観が紐解かれる。これを読めば『古今集』小町歌のことは何でも分かってしまう。

『モテキ』を読んでいつかさんの扱いの酷さにキレてしまった

モテキ (1) (イブニングKC)

モテキ (1) (イブニングKC)

モテキ』を読んだ。面白い漫画だったけれど、どうも読後感にスッキリしないものがある。

いつかさんだ。

モテキ』は、タイトルの通り29歳派遣社員非モテの主人公藤本幸世に突如モテ期が訪れて、土井亜紀、小宮山夏樹、中柴いつかの三人の女性にモテまくるも、非モテをこじらせ過ぎている藤本がグダグダしつつ、失敗の中で徐々に成長していくという話だ。

1巻。いつかさんは「友達」として藤本を誘い山形まで日帰りでラーメンを食べに行く。


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登場シーン。デジイチでバシャバシャ日本海の写真を撮るいつかさん。このコマでいつかさん以外のキャラクターのことはどうでも良くなった。

日帰りのはずが流れで温泉旅館に泊まることに。

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脱衣所に捨てられた種々のスキンケア用品を見て「女は…大変だなぁ……」などと思いつつ、ナチュラルにハイスペックな身体を披露するいつかさん。

旅館の部屋で色々あるも、藤本はことごとく非モテコミットを発動してあっさりとフラれる。

読み始める前は、久保ミツロウの術中にはまって主人公の非モテマインドっぷりにイライラしたりはしないからなって思っていたのだけれど、イライラ通り越して既にキレそう。

モテキ 2 (イブニングKC)

モテキ 2 (イブニングKC)

2巻。いつかさんが表紙であることに期待が高まり、また、全4巻の2巻目に表紙を飾っていることに、「いつかさんはかませ扱いなんじゃ…」という不安がよぎる。

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いつかさんの処女喪失に関わるトラウマ体験が打ち明けられて藤本と急接近する。よし。いいぞ。

そして3巻。

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最高にいい感じになるも、

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突然のこれ。おい。藤本。作者。ちょっと待て。

最終巻。4巻。もう藤本とかどうでもいいから幸せになったいつかさんを見せてくれとページをめくるも、一切登場せず。

あとがき。

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キレた。キレてしまった。

モテキ(4.5) (イブニングKC)

モテキ(4.5) (イブニングKC)

私と同じくキレてしまった読者がたくさんいたのだろう。4.5巻という扱いのいつかさんが主人公の漫画が読めた。

いつかさんの「女」と非モテをこじらせている感じがたっぷりと描かれているのだけれど、正直言って違和感しかない。リアルにいつかさんと同じスペックの女性がいたら爆モテで男なんか選びたい放題だよね。いつかさんに最後まで「非モテ」の属性を押し付けようとしてくる作者の執着は何なのかと、そんなことばかり考えてしまった。

セックス同意書 ―Yes means yes, or no means no?―

11月祭サークラクラッシュ同好会の会誌を買って来て、ひでシスさん(id:hidesys)の『セックス同意書』を読んだ。フェミニズムの「Yes Means Yes(性行為について、拒否の意思が示されたとき拒否だと考え、それ以外は同意とみなす(No Means No)のではなく、同意が示されたとき同意だと考え、それ以外は拒否とみなす、レイプ・セクハラ防止の為の考え方)」に着想を得た並行世界SFの漫画とその解説文で、その世界では、事前に「セックス同意書」に署名してからセックスが行われる。ひでシスさんは、

日本でも最近はたしかにポリティカル・コレクトネスを重んじる傾向は出てきています。しかし社会が『セックス同意書』的社会になるとは考えられません。もし今度性行為をすることがあれば「セックス同意書」を作って相手にサインを求めてください。気持ち悪がられるのではないでしょうか。

と書いていて、これはその通りだと思うのだけれど、アメリカでは既に「セックス同意書」は実在している。

コンドームをキットに入れることで、女性は自分の身を守ることを考えるでしょう。そして契約書を目の前にすれば、誰かとベッドインすることをしばし考え直すかもしれないと思ったのです。

スマホ用のアプリもあるらしい。

カリフォルニア州内在住大学生、法律改訂に伴い、性行為前に使うべき必須アプリ登場 « アメリカより

Yes Means Yesは何故必要か、No Means Noではいけないのか

私自身は、パートナーとの関係性の中でNo Means Noを採用している。

No Means Noを採用する上で重要なのは、「Noとは言えなかったけれど、本当はNoだった」という状況を避けることだ。その為には、パートナーが拒否の意思を示すことを躊躇してしまうような態度を徹底的に排除することが求められる。具体的には、パートナーの体調等の事情でセックスを拒否する意思が示されたときに、ネガティヴな反応を返さないで快く受け容れるというようなことが必要になってくる。

その為には、椎名さんが書いているように、特に男体持ちサイドに繊細な配慮が求められる。No Means Noは「意識の高い男性」を前提とした考え方なのだ。つまり、No Means Noでは、パートナーを思いやる関係性を想定していないセクハラ、レイプを十分に阻止することが出来ない。

そこで、カリフォルニア州では通称Yes Means Yes Lawと呼ばれる法律が2014年に施行された。

カリフォルニア州で大学生同士のセックスは、お互いに同意(Yes)しないと、レイプとして訴えられる可能性がある。 « アメリカより

カリフォルニア州における大学生同士の合法的なセックスは、両当事者が「Yes(セックスしても良い)」と言う発言や態度を明確に示した場合にのみ、あとで「性犯罪者として訴えらる可能性が無い」ことになります。

「Yes」は言葉で伝えたり文書で書く必要は無く、「自分から体を相手に近ずける」「手を相手の身体に廻す」「性器に手で触る」などの性行為容認を示す積極的な態度を示した場合も、「Yes」の意思があった、と解釈されます。

「男女平等」を体現するYes Means Yesの世界

Yes Means Yesと関連してアメリカの恋愛事情が分かり易く解説されている記事に、興味深い記述がある。

http://takeiteasyinamerica.com/?p=18044&cpage=1

よく、こういう質問をいただきます。(いえ、私は国際恋愛の達人でもなんでもないです)

「外国人の男性から、猛烈アタック(死語?)をされています。彼は本気でしょうか?」

日本人女性の多くは、おそらく体験したことはある、または聞いたことのあるシナリオでしょうし、その積極性に戸惑うことも多いはず。

私が、アメリカ社会での男女関係を見てきて思うことは、以下の通りです。

「この人と健康な男女関係を築きたい」と思っている人は、男女関わらず、お互いの意見と意思を尊重し、常に50/50であるという見方をする努力をしています。

そして、上でも述べたように、アメリカでは「セクハラ」の意識がとても強く、それが明らかになると、加害者の男性にとっては死活問題になります。会社で起こった場合は、企業も責任問題を問われることとなり、日本で想像する以上に大きな問題になりうるのです。

そういったリスクを承知している良識ある男性は、うかつに、軽率に、女性に手を出すことはありません。 女性に迷惑をかける言動だけでなく、周りに誤解されるような言動も意識的に避けますし、それが紳士的振る舞いだと私は思います。

「男性から、猛烈アタック(死語?)をされています。彼は本気でしょうか?」というのは、日本ではよく見られる恋愛相談だと思うのだけれど、Yes Means Yesの世界では、一方が積極的で、片方が消極的に値踏みをしているというような関係性は絶対に「本気」ではないのだ。

最初の質問に対する答えは、

「『彼は本気かどうか?』を知ることよりも、『彼とどうなりたいか?』を自分で結論付ける必要がある」

ということですね。

日本では男女の性的価値に極端な偏りがある

ただ、ひでシスさんが書いたように、Yes Means Yesの考え方は日本では受け容れられないだろう。何故なら、日本の旧態的価値観では、性的価値は女体にのみ認められ、男体に性的価値はないからだ。そのような価値観の下では、男性が積極的にアプローチし、女性は自らの性的価値を出し惜しみしつつ男性を選別する、という恋愛観が横行することになる。Yesを明言してしまってはそれ以上カードが切れなくなってしまうのだ。その意味で、Yes Means Yesは古典的な恋の駆け引きを否定する発想でもある。

つまり、男女の対等な関係を目指す上では、男性の性的価値と女性の主体的アプローチを社会的に認めてゆくことが必要になってくる。

ただ、正直なところ、男体よりも女体の性的価値の方が高いというのはそれはそういうものなんじゃないかという印象もないことはない。

私たち日本人としては、アメリカ人のジェンダー対等についての真面目過ぎる取り組みを参考にしつつ、パートナーとの個別的関係性を柔軟に構築してゆければ良いのだと思う。

追記

いくつか突っ込みをいただいてこの記事を読み返してみて、重大な誤解を生みかねない書き方をしていたことに気づいた。「私自身は、パートナーとの関係性の中でNo Means Noを採用している」と書いたけれど、「「Yes」は言葉で伝えたり文書で書く必要は無く、「自分から体を相手に近ずける」「手を相手の身体に廻す」「性器に手で触る」などの性行為容認を示す積極的な態度を示した場合も、「Yes」の意思があった、と解釈されます」という上記リンク先記事のYes Means Yes Lawの解釈に従えば、私はもちろんYes Means Yesを採用している。

Yes Means Yes Law(カリフォルニア州上院法案第967)の原文を見ても、

https://leginfo.legislature.ca.gov/faces/billNavClient.xhtml?bill_id=201320140SB967

“Affirmative consent” means affirmative, conscious, and voluntary agreement to engage in sexual activity. It is the responsibility of each person involved in the sexual activity to ensure that he or she has the affirmative consent of the other or others to engage in the sexual activity. Lack of protest or resistance does not mean consent, nor does silence mean consent. Affirmative consent must be ongoing throughout a sexual activity and can be revoked at any time. The existence of a dating relationship between the persons involved, or the fact of past sexual relations between them, should never by itself be assumed to be an indicator of consent.

「積極的同意」は、性行為に関わる際の、積極的で、意識があり、そして自発的な同意のことである。性行為に関わるために相手や複数の相手についての積極的同意を持っていることを保証することは、性行為に関係する両者の責任である。抗議や抵抗の欠如は同意を意味せず、沈黙もまた同意を意味しない。積極的同意は、性行為を通じて継続していなければならず、いつでも撤回することが可能である。関係する人々に交際関係があることや、彼らの間の過去の性的関係の事実は、それ自体で同意の指標となると想定されることがあってはならない。

「積極的同意」の具体的な示し方については明記されておらず、英語の記事をいくつか読んでみても口頭や書面での同意を必要とするかについて解釈が分かれているようだ。ただ、法案の文章は、性行為の同意に関わるフェミニズム的な啓蒙を主眼としているようにも読める。また、この法案の背景には、カリフォルニアの大学で、泥酔させた上でレイプする(スーパーフリー事件のような)事件が多発していたことがあることも踏まえなければならないだろう。Googleで検索すると色々な記事が見つかる中で、

So are affirmative consent laws a good idea? If they are broad enough to include nonverbal cues, I think so. If we can admit that enthusiastic consent is often communicated in body language or knowing looks, then we must also accept that the lack of consent doesn’t always manifest itself in a shouted “no” or “stop,” either. It shouldn’t be the sole responsibility of the uninterested party to speak up during a sexual encounter. If you think it’s easy for a person to just say no, then why would it be so hard for his or her partner to just ask?

では積極的同意を求める法律は良いアイディアだろうか?非言語的サインにまで解釈の幅を広げるならば、私は良いアイディアだと思う。情熱的な同意はしばしばボディ・ランゲージやそれと分かる表情によって示されることを認めるならば、同意の欠如が常に「ノー」や「やめて」と叫ぶことによって明示されるわけではないことも受け容れなければならない。性的交わりの際に声を出すことは消極的当事者に一方的に担わされる責任となるべきではない。もしあなたがある人にとってただノーと言うことが簡単だと思うなら、彼や彼女のパートナーにとってただ意志を聞くことが難しいと感じる理由があるだろうか?

このAmanda Hessさんの解釈に同意したい。法律の厳密な解釈に囚われるのではなく、こういう風に同意の確認方法についての思想をアップデートしてゆくことが重要なのではと感じた。

ただ、この記事では基本的に「言葉で意志を明示するかそうでないか」の意味でYes Means YesやNo Means Noを使っている。Yes Means Yes概念への理解度が不十分な段階で文章を書いてしまったことは反省しています。

「セックス同意書」Yes Means Yes or No Means No? - あなたとあなたの話がしたい

“男性の性的価値”⇐なんかじわじわと上がってきて認められている流れだと思うし、絶対に受け入れられないということはないと思うんだけどなあ。どうなんだろうか。無理みたいに言われちゃうと悲しい

2015/11/20 20:24

eri_picoさんのブコメ、最近は様々な方面で、男性の性的価値を認めるような動きあって素晴らしいと私も感じています。