男性学/メンズリブ的な考え方のどこがしっくり来ないか

メンズリブをやっているのにメンズリブに共感できないという悩み

私は「うちゅうリブ」というメンズリブ的な問題意識を背景とした語り合いの場を主催して1年以上になるけれど、実を言うとこれまで男性学メンズリブの典型的な考え方に共感できたことがあまりない。そこで、この機会にどうして共感できないのかということを突き詰めて考えてみたい。この記事では、学術的な観点よりも生活における実践の観点を主な関心とする。

男性学メンズリブの考え方とは何か

この記事で言う「男性学メンズリブ」とは、現在の日本で「男性学メンズリブ」と言ったときに主に想定される、親フェミニズム/リベラル左派系の男性学メンズリブのことを指す。

男性学」とは何か、ということについて、上野千鶴子さんは、男性学は「フェミニズム以後の男性の自己省察であり、したがってフェミニズムの当の産物である」と明言し、「男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である」と定義している*1。この男性学の定義は、代表的な男性学者の伊藤公雄*2さんと多賀太*3さんによって肯定的に引用されている。

つまり、フェミニズムによる男性権力への批判を受けて、強者、抑圧者、加害者側とされた男性は、ではこれからどうすれば良いか考えようというのが男性学の問題意識の起点と言える。論者によって関心の違いはあるけれど、実践レベルに注目すると、

  • フェミニズムと連携して男女平等な社会を実現する必要がある
  • 女性を抑圧して来た男性権力構造は男性自身もまた抑圧するものである
    • フェミニズムと連携して男性権力を打破することは男性の利益にも適うものである
  • 男らしさの規範から脱した生き方を目指そう

概ねこれらの観点が男性学メンズリブの典型的なアプローチになると思う。

強すぎる親フェミイデオロギーの拘束

このように男性学においては、フェミニズムの批判を受けてマジョリティとしての男性がどう反省し、変容するかという立ち位置を主軸とする訳だけれど、では本来の意味でフェミニズムと対置されるような、男性差別の撤廃や男性の権利を訴えるような男性学メンズリブはないのかと言うと、あるにはあるけれど、それは「男性学メンズリブ」とは呼ばれず、「マスキュリニズム」や「メンズ・ライツ・アクティヴィズム(MRA)」と呼ばれ、日本のアカデミズムで主流派の親フェミ系男性学とは根深い対立関係にある。男性の権利主張派の論者の中には、女性蔑視的な発言やフェミニストへの中傷を積極的に行う者も多く、その点が男性学フェミニズム支持の立場と決定的に相容れないからだ。

上の記事は日本を代表するマスキュリニストである久米泰介さんが日本を代表する男性学者である田中俊之さんについて書いたものだけれど、「フェミニズムの犬」などと見るに耐えない罵詈雑言が書き連ねてあり、界隈の対立の深刻さを感じさせる。

その一方で、田中俊之さんなどの親フェミ系男性学者もまた必ずしもフェミニストに快く思われている訳でもなく、男性学の中に見られる男性権力擁護的な要素は常にフェミニストからの厳しい批判に晒されている*4

ここまで長い前置きをおいて何が言いたいかというと、要するに現状の男性学イデオロギー上の制約がちょっと強すぎるのでは、ということだ。

ここで誤解のないように明言しておくと、私自身もまたフェミニズム支持、リベラル左派の立場だ。その一方で、第2波フェミニズムの家父長制理論における支配的な男性像をベースに男性当事者の問題を考えて行くことがそもそも暴力的なのではという懸念がある。フェミニズムのことはフェミニズムに直接学び、男性学フェミニズムとはもう少し独立した距離感で当事者にフラットに寄り添えないものだろうか、そんなことを私はいつも考えている。

男性学が理想とする価値観に感じる押し付けがましさ

上に述べたことと関連する話だけれど、どうにも男性学の理想とする人間観に根本的な合わなさを感じる部分もある。

ぼくは、近代社会の男性性を「優越指向、所有指向、権力指向」の三点から分析することを提案してきた。つまり、他者との競争に勝利したい、他者より優越したいという優越指向、他者より多くを所有しそれを管理し見せびらかしたいという所有指向、さらに他者に自分の意思を押し付けたいという権力指向である。

近代的な男女の二項図式のなかで、男たちは自分の男性性(「俺は女ではない」「「男」の枠外にいるものは男ではない゠ホモフォビアの構図」)という構図に縛られて、優越と所有と権力のゲームに追い立てられる。しかし、このゲームで勝者になることはきわめて困難だ。男たちは、自己の男性性を確証しようとするためのゲームのなかで、完全に達成することができない男性性という不全感と不安定感を背負いこむことになる。

伊藤公雄男性学・男性性研究=Men & Masculinities Studies ―個人的経験を通じて」

この伊藤公雄さんの文章はかなり典型的に男性学っぽい主張なのだけれど、まず個人的な価値観として、「優越指向、所有指向、権力指向」こういったものは男性学が指摘するように、自身や他者を抑圧する原因となる一方で、人生を生き生きと魅力的にさせるものでもあると思う。自己顕示欲、競争心、向上心、力への意志、承認欲求、嫉妬…そういったものなしに送る達観した人生は私にはつまらなく感じられる。

当然そういった意識への執着が、男性ジェンダーの典型的な問題とされる過労や自殺、他者への抑圧的な態度につながるようでは良くない。しかし男性学の議論を見ていると、価値観のセットの良し悪しの問題と、それが実際にどう自身や他者に不利益を発生させているかの問題が切り分けられておらず、特定の価値観による生き方を一方的に推奨されているような押し付けがましさを感じるのだ。

こう言うと何かマッチョな価値観を良しとしているように聞こえるかも知れないけれど、私もホモソーシャルや、権威主義保守主義的な環境における個人の自由への抑圧を激しく嫌悪する人間だ。しかしそこに反対する男性学にも価値観の偏りが見られないかということにも注目したい。実社会で生きて行く中では、生活の様々な局面に合わせて、時には矛盾するような価値観を採用して、自身にとっての生きやすさを最適化するということもあると思う。様々な価値観をどのようにカスタマイズして人生を豊かにするかは、他人ではなく他ならぬ自分が決めるものだという感覚がある。

また、メンズリブの実践の観点で言うと、ジェンダーによる思い込みへの気づきのような、心の持ち方の如何で解決されるような問題はそもそも限定的という側面もある。男性学が指摘する「男らしさの呪縛」による弊害を個別に見て行くと、ジェンダーよりも個別の労働環境や発達障害など、より根本的な問題が見えてくるケースも多い。

メンズリブの実践が差し当たって内面の問題に着目するのであれば、もっと自然体で、自分らしい生き方を自分で選択できるようなありかたを目指しても良いのでは、というのが今私の考えているところだ。

*1:上野千鶴子「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」(『日本のフェミニズム 別冊 男性学』所収)

*2:伊藤公雄男性学・男性性研究の過去・現在・未来」(『新編 日本のフェミニズム12 男性学』所収)

*3:多賀太「日本における男性学の成立と展開」(『現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在』所収)

*4:澁谷知美「「フェミニスト男性研究」の視点と構想」、平山亮『介護する息子たち』の批判が代表的。要約すると、男性学は「男性も生きづらい」と主張するが、それは決して真のマイノリティとしての女性の生きづらさと並列して良いものではなく、むしろ男性の生きづらさは男性の特権と表裏一体のものとしてあり、そういった男性権力の構造を解明、解体することにこそ男性学は注力すべきという趣旨の批判。