自分と付き合いたい願望

この匿名ダイアリーを読んで、昔の自分もこんなことを考えていたなあ、と、思った。

過去の私は、自分と良く似た人と付き合って、深いところで分かり合うのが恋愛だと思っていた。

でも、実際に自分と全然違うタイプの人と付き合ってみて、分からないところを分かろうとする面白さとか、全く異なる考え方とか感性に触れる楽しさ、みたいなことが分かってきた。

単純に実利的な面で言っても、能力値のパラメータがまったく同じ割り振りになっている同士で付き合ったとしたら、苦手な状況に陥ったときに、二人でテンパってネガティヴスパイラルに陥ってしまうかも知れない。片方が余裕を失っているときに、もう片方が余裕を保てると、破滅的な局面を迎えることを避けられる気がする。

この辺りのことは、橋本治が『恋愛論』に分かりやすくまとめてくれている。

恋をする、恋が成立するっていうことで非常に重要な条件ていうのがあってサ、それは何かっていうと、お互いに矛盾してる二つのことなのね。一つは"その二人が似てる"ってこと。もう一つは"その二人が正反対だ"っていうこと。違うから惹かれる、同じだから分かる――言ってみれば簡単なことだけど、これはホントに重要。重要で、そして結構忘れられてることね。恋愛が破局に到るっていうのは、もう必ず、このどちらか一方の条件が成り立たなくなってる時なんだから。

「親友」という幻想

振り返れば、私は「自分と付き合いたい」的な思いを友人に対しても抱いていて、ごく少数の気心の知れた相手としかまともに話さない(話せない)という人間関係の築き方をしていた。

高校時代には何人かの「親友」に恵まれたのだけれど、今彼らと会ったりすると、所属環境と社会的階層がずれて来ているせいで話題を合せるのが難しくて、「この人は自分と似ている」というようなことは大部分が幻想だったということに気づく。

端的に「コミュ障」だったのだと思う。

最近やっと他人と自分が違うということが受け容れられるようになってきた。

孤独

ただ、今の環境には肝心の話し相手がいない。私の専修にはゼミという文化がなくて、卒論は各個人で勝手に書けというスタイル。ほとんど誰とも話さずに一日を終えることも多い。

高校卒業後、一浪して入った大学の中退を経て大学生のようなことを7年近く続けている。「大学生」という泥沼から一刻も早く抜け出したい。あと半年の辛抱だと、自分に言い聞かせながら、孤独に耐える日々を送っている。

包茎治療に高度な情報リテラシーが試された話

精通と性教育に関するネタがTwitterでシェアされていて、性教育されなさ過ぎて精通前夜の思春期に苦労した体験を思い出した。

高1の頃の話

私は未だ射精したことがなく、小学生のそれのような包茎だった。

おかしいと気づいたのは、当時所属していた卓球部の夏の合宿の際。風呂場でチラッチラッと見える部員のそれが、明らかに私のモノと様子が異なる。

家に帰って来てネットで検索すると、どうやら私のそれは包茎、しかも自力で包皮を剥けない「真性包茎」というヤバい状態らしいということが分かった。

治療しなければマズい、しかし家族には恥ずかしくて相談できない、ということで、取り敢えずググってみる。

包茎 治療 - Google 検索

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悲惨な結果だ*1

そもそも自力で剥ける「仮性包茎」と剥けない「真性包茎」という区分は日本だけのもので、「仮性包茎」はまったく健康な通常のペニスであるというのが世界の常識だ。

このような独自用語を持ち出して、真性包茎ばかりか仮性包茎も手術で治さないと女性に馬鹿にされる、モテないというようなイメージを押し付けて高額な手術代を掠め取ろうとする詐欺業者が日本には跳梁跋扈している。

キトー君

手術以外の選択肢はないのかということで、「包茎 自力 治療」のようなワードで検索していると、「キトー君」という怪しげなグッズが見つかった。包皮口を伸ばして治療することが出来るらしい。

郵便局止め
誰にも知られずに、商品を受け取ることができます。

親にバレずに「郵便局止め」で買えますよ、という小憎らしいアピールまでしてくる。

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でもこんなチャチな器具が1万円って…。世間は人の弱みにつけ込んで金を騙し取ろうとする悪い大人で溢れていた。私は世界に絶望した。

しかし、一縷の希望もこのキトー君のサイトにあった。どうやら包皮口を伸ばせば治るらしい。

正解は2ちゃんねるに書いてあった

真性包皮は手術しないで治る!part29

そして遂に正解に辿り着く。2ちゃんねるの「真性包茎は手術しないで治る!」スレだ。スレタイからして救いに満ちている。

このスレに、爪楊枝2本で包皮口を伸ばしたら剥けた、と書いている人がいた(ただし、爪楊枝で伸ばす方法は最適ではない*2)。

この書き込みを読んで、早速爪楊枝を二本用意してお風呂の際に試みてみる。

爪楊枝を包皮口に差し込んで、ほとんど全力に近い力でグオーッと引っ張ると、わずかながら伸びていることが覗えた(今になって振り返ってみるとかなり危険な手法で、真似したらダメゼッタイという感じだけれど、当時の私にしてみれば藁をも掴むような思いで手に入れた唯一の策で、必死だった)。

これを毎日繰り返して、指が入るようになったら指で伸ばして、ということを地道に行ったら、2週間弱で亀頭が露出した。

インターネット上の包茎についての情報は、最も悪質なもので満ち溢れていて、最も悪質なサイトとされる2ちゃんねるにのみ正しい情報が書いてあった。本当に難しい状況だった。難しい状況だったけれど、当時から既に私の情報リテラシーは高い水準にあった。

最近の「真性包茎は手術しないで治る!」スレには、「あの時、このスレのお蔭で救われました」というような男たちの感謝の書き込みが時折残されている。

その後、精通

剥けてから間もなく射精を経験した。精液の濃度は薄く、ほとんど透明で、部屋の天井近くまで勢い良く飛んだ。

それと面白かったのが、剥ける前の私の性器は非常に小さかったのだけれど、剥けてから一年程で2倍くらいの大きさになった。人体の神秘を感じる。

親は子の包茎にどう対処すべきか

http://baby.goo.ne.jp/member/ikuji/skincare/5/02.html

子の包茎に対して親が出来ることについては情報が錯綜しているのだけれど、泌尿器科医の岩室紳也先生の情報によると、生後半年以内に剥く方法があるらしい。

私の場合も、幼少時に母とトイレで剥く練習をした記憶があるのだけれど、一度剥いただけで、子が自分で剥く癖を身につけないまま放置すると、私のように苦労することになるのかも知れない。

特に包茎の問題を抱えなかった大学の友人に聞いた話だと、幼少時に父親がお風呂で剥く練習をしてくれたようだ。私は父と今に至るまで性的な話をしたことがなく、思春期に父親に相談するという選択肢がなかったことも問題を厄介にした。

誤った情報が危険な影響力を思春期の子供に及ぼしている包茎治療問題。親と子に対する性教育の課題として、重要なテーマではないだろうか。

*1:画像は2015年現在のGoogleだが、当時も大差なかったと思う。

*2:現在まで29partに渡るスレの議論の結果、part7の10が提唱した、洗濯バサミに半分に切った綿棒をセロテープで貼り付けて疑似キトー君を作る方法が最適解として認定されている。
真性包茎は手術しないで治る!part7
10 :病弱名無しさん:04/11/22 23:38:54 id:nmbOAKZQ
(……)
製作方法
洗濯バサミと綿棒、セロテープを準備
洗濯バサミの取っ手の部分に真ん中から半分に切った綿棒を取っ手に沿って
セロテープで動かないようにしっかり貼り付ける、これで完了。
次に綿棒の綿にオロナイン軟膏かハンドクリームを少し付けて、取っ手を
摘まみながら包皮と亀頭の間に差し込む。
取っ手を少しずつ開いて行くと包皮が広がる。
痛いときは洗濯バサミにテッシュなどを挟んで調整してください。
毎日1時間ほど繰り返すと2ヶ月位で漏れの場合広がった。
軽量、コンパクトの為この状態で下着を着けてもOK

キリンラガービール

最近気づいたのだけれど、キリンラガービール、すごくいい。

数年前は、日本のビールとか味が薄すぎてこんなものは酒じゃないみたいに馬鹿にしていて、日本酒ばかり飲んでいた(好きな銘柄は菊姫の「鶴乃里」)。

ところが、去年の研究室旅行の飲み会で吐いてしまって、初対面の先輩方に介抱して貰うという失態を犯してしまい、それ以来酒をあまり飲まなくなった。

でもまあ、ビールなら軽くていいじゃないということで、またクラフトビールしか飲まないという通気取りを発揮して、

ケストリッツァーうめー、さすがゲーテの愛したビールじゃ。とか、そういう感じだったのだけれど、最近キリンラガービールを飲む機会があって、はまった。

これはいい。すっきりとした飲み口でぐいぐいイケるし、しっかりとした苦味もある。一缶飲んだら気持ち良く酔えて最高にハイな気分だ。がっつり飲みたいときはロング缶という選択肢もある。

どうして、こんなにいいものの価値に私は気づいていなかったのだろうか。

東京タラレバ娘 ―愛されたい願望と愛することのむずかしさ―

*1

最近東村アキコさんの『ヒモザイル』を読んで、自分のアシスタントを「クソメン」呼ばわりして上メセでモテ指南するという内容に、青筋立ててキレつつも、漫画としての面白さには惹かれてしまう(第二話の「抜け感男子」には吹いた)という体験をした。

そこで、批判するにしても他の作品も読まなければと思って取り敢えず一巻だけでもと『東京タラレバ娘』を買ってみたのだけれど、漫画として面白すぎて結局三巻まで一気に読んでしまった。とにかくテンポが良くて、笑えるし、一方で絶えず刺されているような痛さもある。

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

愛されたい願望

主要キャラの女性三人はバリバリ働く自立した女性でありながら、恋愛についてはひたすら受身で主導権をほとんど男性側に丸投げしていて、三巻終了時点で三人ともダメンズなイケメンの言われるがままされるがままに翻弄されているという有様だ。

昨今、日本の男性はAVのせいで"セックス=支配的・暴力的なもの"と思い込まされているのではないかと、しばしば指摘されるようになった。一方で、女性もまた、少女漫画というまほろばの湯に肩までどっぷり浸かった結果、"恋愛=受動的・依存的なもの"という幻想を刷り込まれて手放せなくなっている人は多い。

福田フクスケさんは、この受身なスタイルを、「少女漫画」のファンタジーとして、作者は「彼女たちを毒する「少女漫画脳」というロマンティック・ラブ至上主義の洗脳を、いささかスパルタなショック療法によって解こうとしている」と分析する。

でも、私はそれだけだろうか、とも思う。自分で恋愛を経験したり、色々な恋愛模様を観測したりしていて、女性が愛されることによって、生き生きとした、何か「男性」である私には得られないような生命の充実感を得ているような状態は、「ファンタジー」とは別の次元で確かにあるのではないかと感じる。問題は、その愛される喜びを一方的に享受することが可能なのだろうか、ということだと思う。

レイプなのか愛なのか

一巻の最後に、主人公で、若手に仕事を奪われつつある脚本家の倫子が、歳下イケメン毒舌モデルのKEY(倫子とその友達の3人の女性キャラに並ぶ主要登場人物)に、「俺に枕営業してみろよ」とレイプまがいの迫られ方でセックスするシーンがある。

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何でレイパーが堂々と二巻以降も主役面して説教垂れてるんだ、「※ただしイケメンに限る」ってやつか、これだから女は、とか言いたくなってしまうのだけれど、そこにはちゃんとKEYが倫子に特別な感情を抱いているのではないか(「枕営業」は本音ではないのではないか)、と示唆する描写が用意されていて、実際のセックス描写も、

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こういう感じになっている。一応体位としてはKEYが上で責め感を出しているけれど、しっかりと目を開いて倫子を見つめていて、身体への繊細な配慮が感じられるし、互いの身体の密着度も高い。「これはレイプではないな」と直観的に感じられ、倫子本人も「ゆうべの私は愛を手に入れたと思えた瞬間がほんの一瞬ですがあったんです」とモノローグしている。

愛の積極性とセクハラのジレンマ

ただ、言葉がレイプ的で、行為は紳士的というのはやはりファンタジーだよな、とは思う。

現代の男性は、性的な文脈で積極的にアプローチすることがセクハラになり得るということは理解していて、「草食化」と言われるように、恋愛へのアプローチは消極側に振れている。『東京タラレバ娘』に出て来るような、特別に親しい訳でもない女性に安易に積極的なアプローチを試みる男性というのは、セクハラオヤジマインドの雑魚か、或は余程の手練れか、いずれにせよ何か危険な意図を隠し持っている人間しかいないのではないか。『東京タラレバ娘』に出て来るイケメンも、不倫男だったり、元カノをセフレキープするバンドマンだったりと酷い有様だ。

まとめ

愛されることよりも愛することの方が、気を遣わなければいけないことが多いので難しい。これから、三人の主要キャラが「愛する」ことも出来るようになっていくような、そういう展開になると期待したい。

*1:2020/05/04追記。リンク切れのため、はてブページに差し替えた。

『ジェンダー・トラブル』 ―1.2. 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序―

ジェンダー・トラブル』

  1. 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体
    1. フェミニズムの主体としての「女」
    2. 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序

1.2.「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序」の見どころ

1.2.では、この本の要となる、セックス/ジェンダーの区別の否定が提起される。生物学的な性を表す「セックス」と文化的な性を表す「ジェンダー」の区別は、誰もが知っているジェンダー論の基礎のように認識されている一方で、実は1990年にバトラーによって否定されていた。文化的に構築される「ジェンダー」という概念を理解することによって、自らの性が社会的に抑圧されている可能性に気づく。その気づきを与える点において、ジェンダーというのは画期的な概念だった。しかし、このセックスとジェンダーの二分法、よくよく考えると様々な疑問が湧いて来る。セックスが生物学的な身体だとして、身体から分離された性など有り得るのだろうか。また、社会的に形成され、時には個人の性を抑圧するものがジェンダーだとして、では、本来あるべき性は何と呼べば良いのか、それもまたジェンダーなのか。バトラーは、セックスもまたジェンダーと同様に社会的に構築されていると述べ、従来のジェンダー認識の刷新を提案する。

従来のセックスとジェンダーの区別

そもそもセックスとジェンダーの区別は、〈生物学は宿命だ〉という公式を論破するために持ちだされたものであり、セックスの方は生物学的で人為操作が不可能だが、ジェンダーの方は文化の構築物だという理解を、助長するものである。つまり、ジェンダーはセックスから因果的に導きだされる結果などではなく、またセックスのように固定しているように見えるものでもない、という理解である。

まずバトラーは、従来のセックス/ジェンダー二分法の考え方を検討する。

セックス/ジェンダーの区別は、性別化された身体と、文化的に構築されるジェンダーのあいだの、根本的な断絶を示唆することになる。さしあたって性別という安定した二元体があると仮定したとしても、「男」という構築物がオスの身体から自然に生まれ、「女」はメスの身体だけを解釈するものとは言えない。さらに、たとえセックスが形態においても構造においても疑問の余地のない二元体のように見えたとしても(それもいずれ問題となる)、ジェンダーもこの二つのままでなくてはならないと考える理由は何もない。二つのジェンダーという仮定は、ジェンダーはセックスを映す鏡だとか、たとえそうでなくてもセックスによって制約されているといったような、ジェンダーとセックスのあいだの模倣関係を、暗に信じているものだ。構築物としてのジェンダーの位置は、セックスとは根本的に無関係であると理論づけてはじめて、ジェンダーは自由に浮遊する人工物となり、その結果、男や男性的なものがオスの身体を意味するのとまったく同様にたやすくメスの体を意味することもでき、また女や女性的なものがメスの身体と同様にたやすくオスの身体を意味することもできるようになるだろう。

生物学による生得的な性の決定論を回避するためにジェンダーという概念が持ち出された訳だけれど、もしジェンダーが男性的なものと女性的なものの二つである仮定するならば、それはジェンダーが生物学的なセックスの概念に引きずられていることを意味し、生物学によって制約されているということになる。それでは、当初の目的に合致しないので、「セックスとは根本的に無関係であると理論づけてはじめて」ジェンダー概念は本来の「自由に浮遊する人工物」としての地位を獲得する。

この部分の議論で注意しなければならないのは、バトラーは、セックスと根本的に無関係な「自由に浮遊する人工物」としてのジェンダーという概念を支持しているわけではないことだ(後にそのようなジェンダー観は批判される)。ジェンダーは生物学的な身体と根本的に分離した概念であることを要求する。しかし、多くの人はジェンダーという概念を想起したときに、それは男性ジェンダーと女性ジェンダーの二つだという発想を何らかの意味で持つのではないか。そしてまた、自らの身体と完全に分離させて性のことを考える人はこの世の中に存在するだろうか。バトラーはこの部分の記述によって、ジェンダーという概念は何かがおかしい、ということを読者に気づかせる。そしてこのジェンダーに対する違和感は、実は、人為的に操作できない自然な二つのセックスを想定していることから発生するものなのだ。

セックスとジェンダーの区別の否定

セックスの自然な事実のように見えているものは、じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作り上げられたものにすぎないのではないか。セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく、「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。そしてその結果として、セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる。

1.2.の議論は急速だ。ここで突然にセックスもまた社会的に構築された概念であること、セックスとジェンダーの区別が不要であることが示される。この議論は後々補強されてゆくわけだけれど、私のように、この劇的な展開を見て積年の疑問が晴れるようなスッキリしたものを感じる人もいれば、「そんな馬鹿な」と、トンデモ論のように感じる人もいるのではないだろうか。

セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈だと定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前‐言説的なもの」 ―つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面― として生産され、確立されていくのである。

文化の前に存在する自然な事実のように感じられる「男」と「女」の生物学的な二分法は、実は、ジェンダーによって生産され、自然な、疑いようのないものとして確立されているものだったということだ。

私は「ジェンダー」という言葉が嫌いだった

さて、以上1.2.の議論を見てきたけれど、ここで少し自分の話をしたい。私は「ジェンダー」という言葉が嫌いで、極力使用を避けていた。このブログでもほとんど用いていない。

私は言説には責任を持ちたいと思っていて、自分の中の実感としてはっきりと「ある」もの以外は語らないようにしている。知ったかぶりはしたくないということだ。そして「ジェンダー」という概念は私の中に「ない」ものだった。何かがおかしいと感じていた。しかしどこがおかしいのか言語化することはできなかった。

その違和感の正体がバトラーによって鮮やかに明らかになったわけだ。つまり、ジェンダーの、身体と完全に分離した性という、現実的に有り得ない奇妙な把握に対しての違和感だった。性別違和の問題を考える際にも、「性同一性障害」として、男女二元論的に身体をまったくの誤りであるかそうでないかとする考え方は批判され始めている。

しかし私が自力でこの違和感の正体を言語化できなかったのは、私が自然科学の考え方の信奉者であるために、「男」と「女」という生物学的なセックスの二分法に疑いを差し挟めなかったことによる。「言説以前の自然な男女二つのセックス」という把握を否定すれば、セックスも「男」と「女」というカテゴリーに必ずしも束縛されずに今まさに構築されているものとなり、身体の問題を性の意識から不当に排除する抽象的に歪んだ認識を改めることができる。

『ジェンダー・トラブル』 ―1.1. フェミニズムの主体としての「女」―

25日に大学の図書館でホリィ・センさん(id:holysen)とひでシスさん(id:hidesys)とぶたおさん(id:butao)と4人でバトラーの『ジェンダー・トラブル』(1990)の読書会をした。

私はこの本を読んで大変な衝撃を受けて、ぜひ人と感想を共有してみたいと思っていたのだけれど、他の参加者もバトラーの理論の革新的な視点に少なからず驚きと共感を示してくれたようで、この本は現代の性の問題に関心のある人にインパクトを与えるものだということが確認できた。

バトラーの理論は革新性のあるエキサイティングなものでありかつ、抽象的な理想論ではなく、現実的な実践の立場に根差したものなのだけれど、Twitterで「ジェンダー・トラブル」と検索すると、「難解」という言葉が目立ち、通読を諦めてしまう人が多いようで勿体無い。そこでこのブログに、『ジェンダー・トラブル』全3章15節から、冒頭の1.1.「フェミニズムの主体としての「女」」、1.2.「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序」について、日本のジェンダーについての色々な話を交えつつ要約してみたいと思う。

ジェンダー・トラブル』

  1. 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体
    1. フェミニズムの主体としての「女」
    2. 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序

1.1.「フェミニズムの主体としての「女」」の見どころ

1.1.では、従来のフェミニズムが「女」という統一的なカテゴリーを政治の主体として想定して来たことが批判されている。この本は1990年に出版されたものだけれど、現代日本フェミニズムは、まさに「女」という主体を強く想定するものであるように見える。フェミニズムの主張に親和的であるか、非親和的であるかを問わず、「男」を抑圧者として、「女」を被抑圧者として統一的に論じるフェミニズムの論調に何かしらの違和感を覚える人は多いのではないだろうか。そんな人にとって、1.1.は必見の内容だ。

バトラーの問題提起

これまでのフェミニズムの理論には、たいてい次のような前提があった。つまり、女というカテゴリーをとおして理解される何らかのアイデンティティがあり、それが言説面でのフェミニズムの利害や目標を提起しているだけでなく、政治的な表象/代表リプリゼンテーションを求めるときの主体も構築していると。

これまでのフェミニズムの理論では、女を十全に適切に表象する言語をつくりだすことが、女を政治的に可視化するのに必要な方策だと思われていた。たしかに女の生き方が誤って表象されたり、またはまったく表象されない文化的状況が広く蔓延しているためことを思えば、このことが重要だと考えられてきたのもうなずける。

だがフェミニズムの理論と政治の関係をこのように考える風潮は、最近では、フェミニズムの言説の内部から問題視されるようになってきた。女という主体そのものが、もはや安定した永続的なものとは考えられなくなってきたからだ。「主体」ははたして究極的に表象されるもの、いや究極的に解放されるものとして存在するのかどうか、疑問をもつような材料が数多くあらわれてきた。何が女というカテゴリーを構築しているのか、あるいは構築すべきかについても、ほとんど同意をみてはいない。

男性によって女性の性質が誤って理解されたり、女性に押し付けられたりすることは、昔から今まであるある過ぎることで、フェミニズムの一つの役割として、男性の言語から解放された女性像を打ち立てることがあった。しかし、男性による理解から解放された女性像を打ち立てるにあたって、それをすべての女性にとって納得のいくものにすることは難しい。

このバトラーの問題提起に対して、敢えてこのブログの関心に沿った解釈を加えてみたいと思う。そもそも「女」とはこうだ、ということを決めつけてかかって個別の女性を見ないというのは非モテ男性が典型的にすることだ。非モテ男性(弱者男性)が自らの非モテ性とフェミニズムを関連させて語る、ということがこれまでに幾度となくインターネット上で発生していて、良識ある人々に「男性がモテないこととフェミニズムが関係するはずないじゃないか」というような困惑したコメントをされるところまでがテンプレとなっている。

しかし実際は、「女」という統一的なカテゴリーへの過剰な志向という点において、非モテ男性と従来のフェミニズムには共通するものがあるのだ。つまり、古い時代の男性は女性全体に幻想を押し付ける非モテ的思考をしていて、そこに反抗して生まれた「真の女性性」を探求するフェミニズムは合せ鏡として非モテ的属性を持っているということだ。この説明の仕方は流石にアレ過ぎるかもしれないけれど、男性による言語(男根ロゴス中心主義)に反抗するフェミニズムが、意図せず男根ロゴス中心主義的に振る舞い、その支配を強化してしまうという観点はバトラーの議論に度々登場する重要な発想だ。

主体は権力によって生産されている

フーコーは、権力の法システムはまず主体を生産し、のちにそれを表象すると指摘した。

バトラーは、フーコーの議論を引用して、主体は権力によって生産されたものに過ぎないと指摘する。

そうなるとフェミニズムの主体は、解放を促すはずの、まさにその政治システムによって、言説の面から構築されていることになる。このことは、もしもその解放システムが、支配の差異化の軸にそったジェンダー主体を生産したり、あるいは男性的と考えられる主体を生産しているとなると、政治的に問題をはらむものとなる。なぜなら、「女」を解放する目的があるからといって、無批判にそのようなシステムに訴えることは、明らかな自滅行為となるからだ。

フェミニズム以前に女性という主体があるのではなくて、フェミニズムという政治システムによって「解放されるべき女性」という主体が生産されているというわけだ。フェミニズム自らが「女」という主体を生産していることに気づかずに、素朴に言説の手前に存在する「女」という主体を信じることは、フェミニズム自身が支配構造を強化するような主体を形成してしまう可能性を隠蔽してしまうことになる。

「家父長制」という概念による帝国主義的なフェミニズムの拡張

フェミニズムには普遍的な基盤があり、それは文化を横断して存在するアイデンティティのなかに見いだされると政治的に仮定した場合、それに伴ってよくなされる主張は、家父長制とか男支配という普遍的、覇権的構造のなかに、女の抑圧の単一な形態があるというものである。しかし普遍的な家父長制という概念は、家父長制が見いだされる具体的な文化の文脈でジェンダーの抑圧がどのようにおこなわれているかをうまく説明できないために、最近ではあちこちで批判されるようになってきた。またたとえ具体的な文化の文脈を考慮していたとしても、それが普遍的な家父長制を前提とした議論であるかぎり、最初に仮定した普遍原理の「実例」とか「例証」をそこに見いだしているにすぎない。こういったフェミニズムの理論は、きわめて西洋的な抑圧概念に固執して、非西洋的な文化を植民地化したり、取り込んだりするものだと批判されてきた。またそれは、「第三世界」とか、さらには「オリエント」などというものを作りあげ、そこでなされるジェンダーの抑圧を本質主義的で、非西洋的な野蛮の徴候として巧妙に説明してしまうものである。すべての女を表象/代表しうると主張するフェミニズムが、その見せかけを押し進めようとして、ぜがひでも家父長制に普遍的な地位を与えなければと思い、この性急さゆえに、女に共通の隷属的経験をさせるとみなしている支配構造の、まさにそのカテゴリー好きの架空の普遍性に向かって、フェミニズム自身がまっしぐらに突き進んでしまうことになるのである。

「家父長制」とは、歴史的には家長である男性に権力が集中した家族形態を表すもので、フェミニズムは歴史的な制度としての「家父長制」を拡張して、より一般的な、男性による女性支配の構造を表す概念としての「家父長制」を理論化してきた。この「家父長制」というのは非常に汎用性のある概念で、特に日本のようなジェンダー環境においては、あらゆる社会的な事象が家父長的、男支配的なものとして説明し得る。例えば、最近の上野先生の下記のツイートに広義の「家父長制」という語が用いられている。

しかしあまりにも便利過ぎて、あらゆる事象を「家父長制」の表れと解釈して次々とその「実例」を見つけていくことによって、その支配構造の架空の普遍性をフェミニズム自身が生産してしまっているのではないか、というのがバトラーの指摘だ。

また、西洋的な抑圧の概念に根差した「家父長制」という概念を非西洋世界に拡張することは帝国主義的な「植民地化」と言えるのではないか、とも述べている。これは、「家父長制」という概念が歴史的に余りにも上手く適合する日本人にとってまさにクリティカルな議論だろう。

日本でのジェンダーに関する議論は、欧米のそれと比して常に遅れている。1990年に発表され、ジェンダー論の「古典」とされるこの本の議論が一般に十分に吸収されていないことがまさにそのことを表していると言えるだろう。このことは先進と発展途上の関係を東洋である日本が西洋に押し付けられていると解釈することもできる。

しかし私はこのことはそれほど悲観的に考える必要はないと見ている。海外に優れたものがあるならばそれは適宜取り込めば良いし、日本の若年層の実際のジェンダー環境はかなり「進んで」いる。

データえっせい: 同性愛への寛容度の国際比較

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このように統計的にも明らかだし、実際に私の周囲の人々を見ても純然たる異性愛至上主義者はほとんどいないように感じる。このことは私の理解では、日本にはキリスト教の影響が少ないことと、多様な性の表現を含むサブカルチャーが充実していることが要因だと思う。

バトラーは帝国主義への警戒にこの本で何度か言及するけれど、私にはこのことは杞憂であるか、或はバトラーが自らを無意識に西洋人にカテゴライズすることによる驕りのようなものが感じられた。

フェミニズムは「女」という主体を前提にするべきではない

わたしが示唆したいのは、フェミニズムの主体の前提をなす普遍性や統一性は、主体が言説をつうじて機能するときの表象上の言説の制約によって、結果的には空洞化されてしまうということである。実際フェミニズムに安定した主体があると早まって主張し、それは女という継ぎ目のないカテゴリーだと言った場合、そのようなカテゴリーは受け入れ難いと、あらゆる方面から当然のように拒否されてしまう。このような排除に基づく領域は、たとえそれが解放を目的として作られたものであろうと、結局は、威圧的で規制的な帰結をもたらすものである。事実フェミニズムの内部におこっている分裂や、フェミズムが表象していると主張しているまさにその「女たち」からフェミニズムに対して皮肉な反発が起こっていることは、アイデンティティの政治に必然的な限界があることを示すものである。

アンチフェミニズム的な態度をとるのは何も男性に限ったことではない。フェミニズムに対して反発したり、冷笑を浴びせる女性というのはしばしば見られる。彼女たちはフェミニズムにとって「女ではない」となるのか。もちろんそのようなことはないわけだけれど、この辺りの整合性をとることは、フェミニズムが「女」という主体を前提とする限り不可能だ。

しかしバトラーはこの本を通じて現実的な態度を貫くので、フェミニズムという政治そのものを否定したりはしない。この章の最後は次のように結ばれる。

おそらく逆説的なことだが、「女」という主体がどこにも前提とされない場合にのみ、「表象/代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるだろう。

「女」という主体を前提としないフェミニズムについては、「1.4.二元体、一元体、そのかなたの理論化」で語られるのだけれど、結論だけ引用すると、

フェミニズムの行動は何らかの安定して統一的で、皆が同意しているアイデンティティによってなされるべきだという強制的な要請がなければ、フェミニズムの行動はもっと速やかに始まるし、また「女」というカテゴリーの意味が永久的に非現実的だと感じている多数の「女たち」にとって、その行動はもっと好ましいものと思えるだろう。

このような構想があるようだ。

まとめ

さて、ここまで述べて来たのは、第一章の第一節の内容についてなわけだけれど、これだけで、こんなにも多岐に渡る議論が出来る。バトラーは、性の現場に起きていることに即したクリティカルな議論をするので、読者の関心に従ってバトラーの議論はどこまでも派生する。1.2.「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序」についてもこんな感じで書いてゆきたいと思う。

下駄とファッション

http://sousounetshop.jp/?pid=90816205

去年から京都の「SOU・SOU」というお店で買った下駄を夏場にはいつも履いているのだけれど、これがなかなか良い。何よりも足の裏に桐の感触のある気持ちよさ。桐は軽いからスタスタ歩けるし、今日みたいな雨の日に水溜まりを突破できる走破力もある。靴下を履くという作業を省略できるところも朝起きたくない勢にとっては有り難いよね。底にスポンジが貼ってあるから音も静か。その辺りの気配りもあるアイテム。でありながら地味に木の音が楽しめる奥深さもあり。底がそれなりに厚くて、非装着時よりも視点が高くなるのもスペシャルな感じがして最高に幸せな気分だ。

ちなみに「SOU・SOU」は足袋靴下も可愛い。

http://sousounetshop.jp/?pid=43821638

と、いうような話を友人(中高一貫男子校卒の純粋培養非モテ。まともに話が出来た同じクラスの女性全員を食事に誘ったことによって、クラス中に悪い噂が広まり、今は休学して満州に旅に出たりしている)にしたら、

「僕も下駄買ってみようかな」
「下駄履いてモテるかもとか思っとるやろ」
「少しは」
「逆やで。下駄みたいな個性的なアイテムは基本的には非モテ度を加速させるから」
「そうなの」
「うん。履くならモテは度外視しないと」
「じゃあやめとこ」

私は高校生の頃ブーツカットジーンズに(KOFキャラみたいなイメージをカッコイイと思っていて)すごい嵌まっていたのだけれど、あれはめちゃくちゃ痛かった。

“おぐらえいすけ”さんが語る!『KOF XIII』その1 | THE KING OF FIGHTERS XIII オフィシャルブログ

http://game.snkplaymore.co.jp/official/kof-xiii/blog/20100902_ashhikaku.jpg

「“無難”が偉い」かどうかは知らないけれど、余程卓越したセンスを持っているのでなければ、ファッションを考える上で「無難」という視点は外せないと思う。好きではない服は着たくないけれど、好きな服を着られるとは限らない。着たい着られない服を着られるようにいつかなれたら良いと思う。