公立中学動物園論争に見る「ダブスタ指摘」論法のくだらなさ

中学受験について、匿名でないと書けないことを伝えたい

まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。

2020/12/08 22:32

公立中学を「動物園」と表現したブコメに日頃ポリコレや反差別にうるさい「はてなリベラル」が多くスターを付けているのはダブスタだという論争が話題になっている。

この論争には、私が以前からネットで多用される詭弁的論法の最たるものだと認識している「ダブスタ指摘」論法の問題点が表れていると感じたので、その観点に絞って書きたい。

問題点を指摘する増田を書く

論争が起きているのははてな匿名ダイアリー(通称増田)なので、私も久しぶりに上の増田を書いてみた。

他者の表現の自由を侵害しようと言うのであれば、その表現がどのように表現対象の人権(自由)を侵害する差別的な表現なのか、ということを十分に社会的合意が得られるレベルで示す必要がある。「自由」と「自由」の対立の調停を図るのが本来のリベラリズムの立場のはずだ。この2つの自由のうち、表現の自由の方を極端に軽視するのが、行き過ぎたポリコレ推進派が本当に「リベラル」なのかと、自己矛盾を感じさせるポイントだろう。しかし「はてなリベラル」嫌いの人たちは、「動物園」の表現の取り締まりにまったく躊躇がないらしく、その点で彼らが嫌いなはずのダメなリベラルに良く似いる。

表現の自由基本的人権なのだから、不快な表現、攻撃的な表現というだけで取り締まろうという方向にするべきではなく、取り締まろうと言うのであれば、その表現が他者の人権(自由)をどのように制限しているかの丁寧な説明が必要なはず、というのが論旨で、「はてなリベラル」批判派の人たちが「動物園」の比喩を曖昧な根拠で取り締まろうというのは、彼らが何よりも嫌いなはずの行き過ぎたポリコレ推進派と同じ立場ですよね?という指摘だ。

「日頃は反差別、ポリコレに熱心なはずの「はてなリベラル」が公立中学を「動物園」と表現するのはダブスタだ」という批判をするとき、この批判者自身の立場は、以下のような真逆の方向が想定し得る。

  1. ダブスタであり、公立中学への表現も厳しく取り締まるべきだ
  2. ダブスタであるから、公立中学への表現が許されるように、その他の差別問題に関する表現についても寛容であるべきだ

私がこの論法を嫌いなのは、批判者が自分はこのうちのどちらの立場なのか隠して批判することが多いためだ。首尾一貫性という、どうとでも破綻を見出せるような枷を、批判相手にのみ課して自らには課さないのは卑怯だと感じる。

ダブスタ指摘論法はミラーリング、試し行動の側面を持つ

私の増田への反応を見てみよう。

「公立中学差別」って何だ?

何でこう論理的思考が弱い人が多いのか、"表現の自由を制限するには、その表現によってどのような人権が制約されているかの丁寧な説明が必要" これを引き出す為の批判に決まってるじゃん(自由の制限の基準含め)

2020/12/12 11:15

今までの差別問題や表現問題のときにそれらはされてましたか?

するまでもなく明らかな場合もあったと思うけど、そうでなく意見が割れてるときにそんな建設的な流れになった記憶ないけど。

検証・説明しきれない部分を「理解してるくせにしらばっくれてる」みたいなのはあったっけ。

そう言えばいいですか?

なんで自分らが批判されるときだけ違う基準を持ち出したり、違うレギュレーションで議論しようとしたりするの?君たちだけそんなに特別な存在なの?

行き過ぎたポリコレ推進派のダメな部分をそのまま演じてやり返す「ミラーリング」のつもりらしい。何だかため息が出てしまう。わざわざ自分がダメだと思っている集団の行動を真似して人を不快にさせて、自分の不快感に気づいて貰おうというのでは、まるで子供の「試し行動」だ。

表現の自由と差別の問題は複雑で、人によって様々な立場を取り得る。自らの立場を隠して、あるのかないのか分からない「界隈」の対立を煽るからダブスタ指摘論法が嫌いなのだと、改めて確認させられる一件だった。