リベラルな非モテ論に共感できない理由 ―絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の相克―

リベラルな非モテ論への反発

小野ほりでいさんの記事を読んで、以前から「リベラル(親フェミニズム的)な非モテ論」のアプローチを理性では理解しつつも自身の過去の非モテ経験に照らし合わせて反発を感じる部分があった私は、何か反論のようなものを書きたい気持ちがあった。一方で、そういう観点で記事を書き始めたら意外に論点が深くなったので、私の非モテ論のコアにある「絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の乖離による苦しみ」という考え方を用いて各種非モテ論を整理しつつ、何故「リベラルな非モテ論」には共感できないのかを考えたい。当事者性を抜きにこの問題を語ることは不可能という立場から、この記事では「非モテ」と言ったときに「交際経験が一度もないが潜在的に恋愛を経験したい欲望のあるヘテロ男性」を主な対象として想定している。

絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の乖離による苦しみ

恋愛に強烈な苦手意識を持つ非モテは、自身が恋愛を経験することは絶対に不可能だという意識に自覚的または無自覚的に束縛されている。その一方で、潜在的に恋愛を経験してみたい欲望がある非モテにとっては、身の周りのあらゆる異性に恋愛可能性を見てしまう。この絶対的な恋愛不可能性と抑え難く感じてしまう恋愛可能性の乖離が(過去の私のような)非モテの苦しみのコアだと解釈できる。

非モテ論の二大潮流

この苦しみを解消するためには

  1. 交際を経験する
  2. 恋愛可能性を放棄する

の2つのアプローチがあり、ここに非モテ論の二大潮流が生まれる。

恋愛を経験するという最もシンプルかつ効果的な解法

こういった苦しみの最もシンプルな解決法は、普通に交際を経験することだろう。性的パートナーができれば、世の中に広く流通する性的パートナーは一人までというモノアモリー規範によって、身の周りの異性に恋愛可能性を想定せずに済むようになり、恋愛は可能であって、かつ無限に恋愛可能性を見出すことはしなくて良いという苦しみのない境地に辿り着くことができる。

非モテに恋愛を経験させるというアプローチでは、非モテ特有の恋愛に不向きな認知を矯正するという観点が重視される。具体例としては、反リベラル的なものでは藤沢数希の「恋愛工学」のような非モテ向けの味付けがされたPUA、ナンパ論があり、そうでないものとしては、二村ヒトシすべてはモテるためである*1森岡正博草食系男子の恋愛学*2などがある。

ちなみに私自身もこのアプローチで非モテ(であった過去の自分の)救済を熱心に考えていた時期があった。

非モテに恋愛可能性を見出すことのナンセンスさ

その一方で、こういったアプローチは、前述した「自身が恋愛を経験することは絶対に不可能だという意識に自覚的または無自覚的に束縛されている」非モテのあり方と決定的に矛盾しているという点で、非モテ論としては半ばナンセンスとも言えるものだ。現に上述した例はどれも純粋な非モテ論というよりは恋愛ハウツー的な要素を多分に含むものとなっている。恋愛に不向きな認知を矯正して恋愛を経験しようというのはある種合理的な解法だけれど、非モテ論としては恋愛不可能性に向き合うものこそがその真髄に近いと言えるだろう。

恋愛可能性を放棄する非モテ

自らの恋愛可能性をどのように放棄するか、また、抑え難い恋愛への欲求に抵抗して確かに放棄できたとどのように自身を納得させるかという難題に対して、非モテ論の先人は知恵を凝らして来た。

MGTOWとブッダ

完全に自分はMGTOWだとわかっている男性は、女性との関係をすべて避けている。それは短期間でも、長期間でも、恋愛においても言える。そういう人は結局、社会そのものを避けている。

彼等は古今東西あらゆる偉人が残した「女性とは関わるべきではない」という思想・言葉を漁り、それをミグタウの起源として主張しているのだ。

彼等は「ミグタウは人間社会において消える事のない火であり、近年それにフェミニズムがガソリンをかけて燃え広がった」と主張している。

近年の動きでまず注目すべきは、ダイレクトに恋愛可能性を放棄するMGTOWだろう。また、reiさんの記事で触れられているように、ブッダもMGTOWに近い発言を原始仏典『スッタニパータ』に残している。

交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。

「犀の角のようにただ独り歩め」がMGTOW(Men Going Their Own Way)と酷似している点と言い、女性を糞尿に喩える現代的視点からは極めて女性蔑視的な言及と言い、あまりにも現代のMGTOWそのもので驚くほどだ。

二次元(非リアル)への欲望の転換

恋愛資本主義社会では、女はモテない男にちやほやされる存在だ。女自体が「商品」なのだから。いかにモテない男から金品を収奪し、自分のために大量に消費をさせるかが、女の「商品価値」をはかるバロメーターなのだ。恋愛資本主義においては女は(若くて綺麗なうちは)「強者」かつ「勝者」であり続けられるのだ。だが、オタク界は、男だけで成立しており、女は脳内の萌えキャラで代替されている。オタクにとっては、三次元の面倒臭い女よりも、二次元キャラのほうが「萌える」のだ。故に、たいていのオタクは三次元の女に対し、恋愛資本主義のお約束となっている奉仕活動を行わないし、彼女たちの機嫌も取らない。男だけ、自分だけで自足している。

今となってはかなり昔感もあるけれど、日本における非モテ論の代表的存在の一つとされる本田透の『電波男』は、二次元のキャラクターを恋愛対象とすることによって、リアル(三次元)の女性への恋愛可能性を放棄する議論と解釈できる。本田透の議論でもまた、上に引用した部分のように恋愛資本主義批判にかこつけた女性蔑視的な言及が多用されている点に注目したい。

ウエルベック非モテ論の隆盛

ここまで見て来たのは、直接的にリアルでの恋愛可能性を放棄する非モテ論だけれど、恋愛可能性を放棄する非モテ論の亜種として、近年強い影響力を持つ「ウエルベック非モテ論」と私が認識している非モテ論がある。

女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。

ウエルベックの『服従』は、2022年のフランスにイスラーム政権が成立する小説だけれど、非モテ論的観点に絞って引用したい。以下は、イスラーム政権に降るように主人公を勧誘する役回りのルディジェとの会話だ。

「(中略)(筆者注:主人公が結婚相手を)本当に選びたいと思っているのですか」
「それについては……ええ。そう思います」
「それは幻想ではないでしょうか。あらゆる男性が、選ばなければならない状況に置かれたら、まったく同じ選択をします。それが多くの文明、そしてイスラーム文明において仲人を作り出してきた理由です。この職業は大変重要で、多くの経験を積んだ賢い女性だけに限られた職業です。彼女たちは無論、女性として、裸の若い女性たちを見て、一種の価値評価をし、各人の身体と、未来の夫の社会的地位とを関係づけます。あなたのケースについて言えば、あなたはご不満に思うことはないと思いますよ……」

(小説内の架空の)イスラーム社会では社会的地位に応じて半自動的に身体的に魅力的な女性があてがわれると言うのだ。そしてこの発想は日本のTwitterを中心とした非モテ論に大きな影響を与えている。

そりゃそうでしょ。テポ東や、エタ風さんのネタ元がウェルベックで、テラケイは、その二人からパクってるだけなんだから、元を辿ればウェルベックに似るだろうね。

https://twitter.com/99mina_jeju/status/969561509465440257

流石に「女をあてがえ」と明示的に主張するのはテポ東さんくらいと思われるけれど、非モテ論の文脈で「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」として「(架空の)昭和のお見合い結婚文化」がユートピア的に持ち出されることは多い。

https://note.com/sumomodane/n/nda55d2cf494e

また、大量の統計をいかがわしく活用することで有名なすももさんなど、主に「女性の上方婚志向」への批判を軸としてリベラルやフェミニズムの欺瞞を指摘するネット論客もこのウエルベック非モテ論の一種と解釈できる。

現在この系統の議論を得意とするTwitterのアルファ、準アルファのアカウントは非常に多く、今の日本のネットで最も広く流通し、勢いがあるのはこの系統の非モテ論だと言えるだろう。

私がこれらの議論を「恋愛可能性を放棄する非モテ論の亜種」と述べたのは、まず「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」を希求するのは自由恋愛を忌避する欲求に基づくことと、これらの議論を支持する人々の多くが言葉とは裏腹に本当に女性があてがわれる保守的な社会の実現を求めている訳ではなさそうという点にある。と言うのも、フェミニズムやリベラルの欺瞞を指摘するための言い回しは熱心に工夫する一方で、フェミニズムのように権利運動レベルで保守的な社会の実現に向けて活動している人はほぼ存在しないように見えるからだ。自由恋愛可能性を否定するフィクションとして、「女性が半自動的にあてがわれるプロセス」をある種現実逃避的に求めているのがその本質ではないだろうか。

フェミニズム非モテの相性の悪さ

必ずしも私に網羅的な非モテ論の知識がある訳ではないけれど、これまで見て来たように、広く支持される非モテ論の多くと女性蔑視的言及には半ば必然とも言えるような関係があるように見える。

その一方で、そのことが必ずしも非モテ男性の多くが反フェミニズム的思想を持っていることの証左にはならない。自身の恋愛可能性を抑圧する非モテは、非モテ論にわざわざコミットしたいと思わないケースも多いだろう。私の場合は非モテ時代から一貫してリベラル、フェミニズム支持の立場だった。

しかし、今非モテ時代の自分を振り返ってみても、フェミニズムの知識は非モテ意識のこじらせを強化する効果を持っていたように思う。上の赤木さんや琵琶さざなみさんの議論は相当極端に書かれているように見えるけれど、これに近い錯誤は当時の私にもあった。実際の女性とのコミュニケーションがまともに出来ていない状態でフェミニズムの知識だけがあって、そのことが頭でっかちで痛々しい認知の歪みを生じさせていたのだ。

リベラルな非モテ論に共感できない理由

さて、長大な前置きを書いて来て、やっとタイトルの本題に入る。ここまで触れて来なかったけれど、リベラルの立場からも「恋愛可能性を放棄する非モテ論」を構想することが可能だ。

ジェンダー論やフェミニズムは「女性が男性から」自立するという視点で繰り広げられるが、これは同時になぜ男性が女性から自立することができないのかという問題でもある。男たちには、「他者を介して」しか幸福になることを許されない呪いがかけられているのだ。

リベラルな非モテ論は、フェミニズムジェンダー論を応用して、非モテの欲望の相対化、脱自然化を試みる。それは典型的には、非モテの苦しみを「男性ジェンダー(男らしさ)の呪縛」として解釈したり、異性愛中心主義(ヘテロセクシズム)の内面化を批判したりするなど、非モテの苦しみの原因を保守的ジェンダー規範の抑圧に求める議論になる。

私が自身リベラル、フェミニズム支持の立場でありながらこういった非モテ論に共感できないのは、端的に非モテ当事者の立場を軽視しているように感じるからだ。現にTwitter小野ほりでいさんの記事への言及を検索すると、記事に強く反発する非モテ当事者の声が多くヒットする。

*3

そもそも非モテが脱規範的生き方を望んでいるという前提がまったくないのに、コミュニケーションに対する足場も固まっていない非モテに脱規範的な生き方を要請するのは、脱規範的生き方を抑圧下の逃避ではなく主体的に選択できる立場からの押し付けではないだろうか。

ではどうすれば…

これまで見て来たように、「非モテが恋愛を経験すること」と「女性の人権を尊重すること」の両立には何か決定的な相性の悪さがあるように思えて、この点を上手く解消できる理論については私も相当な時間を割いて思索して来たけれど、これだと言えるほどの解は未だに得られていない。

特に何か明快な答えという訳ではないけれど、私は烏蛇さんの「幸運(確率)」を評価する考え方が好きだ。確率、幸運ラック、そういうもので人生が大きく動くということは往々にしてある。ありのままの欲望を受け容れることができれば、あるいは。

*1:自身のキモチワルさと向き合い、性的欲望の形を把握することで非モテ的状態からの離脱を目指す。具体的実践としては、性風俗で女性に慣れることや、趣味のコミュニティでの出会いの可能性を説く。

*2:女性の立場を尊重した共感的コミュニケーション能力の醸成を試みる。

*3:2020/10/09追記。これらのツイートは2018年のもので、小野ほりでいさんの記事への言及ではない。

「普通の人たちと異常な自分」という自意識からの解放-『ダルちゃん』完結に寄せて-

*1

『ダルちゃん』が完結した。リアルタイムで読んでいた身としては感慨深いものがあるので、感想を書いておきたいと思う。

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第49話でヒロセと別れてから3話で完結までの流れがやや性急に過ぎた印象もあるけれど、最終話の上の台詞には納得できるものがあった。

異常なのは自分だけではないという気づき

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『ダルちゃん』では、普通の人に擬態しているときのダルちゃんと、「ダルダル星人」状態の素のダルちゃん*2(アメーバ的な姿で表現される)が視覚的に分かりやすく表現され、「普通の人たち」に馴染めない自分の異常性との向き合い方が作品のテーマとしてあったと思う。

作品のほとんどの部分を通してダルダル星人はダルちゃん一人だったけれど、第44話でサトウさんの恋人(後の夫)のコウダが「ダルダル星人」モードで表現され、ダルちゃんにとって初めて自分以外にもダルダル星人がいることが認識される。第45話のコウダの「普通の人なんて この世に一人もいないんだよ ただの一人も いないんだよ 存在しないまぼろしを 幸福の鍵だなんて思ってはいけないよ」という言葉はダルちゃんの世界観を崩壊させるほどの衝撃を与えた。更に、第50話のサトウさんとコウダの結婚式ではより多くの人がダルダル星人として表現される(コウダ曰く「大丈夫だよこんなやつ 意外にいっぱいそのへんにいるんだから」)。そして更に時が経ち、第51話で出版社に転職したダルちゃんの職場の描写では、ダルダル星人モードの社員ばかりの環境の中でダルちゃんは「しっかりした人」扱いされ、逆に少数派となった通常人間モードで描かれている*3。このことから、ダルダル星人かどうかというのは、客観的な事実ではなく、ダルちゃんの自意識の段階によって変化して把握されるということが分かると思う。

それが最終話の、「素の自分も悪くないって思えると擬態も苦痛じゃないっていうか 擬態している姿も私自身なんだなって思えるというか…」という台詞につながる。これはダルちゃんの中で、自分の個性を発揮する部分はプライベートに確保しつつ、職場では適度にキリッと擬態しているくらいのバランスに納得できるようになったということだと想像する。

この最終話のダルちゃんの安定感の背景には、ダルダル星人は自分だけではなく、一人一人個性的な人間がいるのだというような、他者への信頼感が持てるようになったことがあるのではないか。

自意識に閉じた状態は人を傷つける

対して、ヒロセと詩作について揉めた時期のダルちゃんは、この他者の個性を受容できる段階になかった。

プライベートをネタにした詩作云々については、そもそもが大した問題ではなかったはずなのだ。作中の詩の世界が今の日本のリアルの詩の世界と同じようなものだと仮定するならば、そもそも自由詩などはコアなファン層しか読まないマニアックな存在で、会社の人たちに読まれてあることないこと詮索されるというヒロセの心配は杞憂に近いように思われた。

第48話でヒロセが「僕は弱い僕はどうしても 自分自身のコンプレックスに打ち勝つことができない」と述べているように、ヒロセにも人の目を気にして擬態するダルダル星人的な部分があった。しかし、異常なのは自分だけだという自意識に閉じ籠もるダルちゃんはヒロセの弱さに寄り添うことができなかった。

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ダルちゃん自身がこう述べているように、このときはまだ、人と向き合う前に自らの自意識を何とかしないといけない段階にあったのだと思う。

最終話段階でのダルちゃんが当時と同じ問題に遭遇したとしたら、ヒロセの悩みに寄り添いつつも、詩作の自由も確保するような良いバランスのコミュニケーションができたのではないだろうか。

自分自身を振り返ってみて

私も中学生になった辺りから周囲に「変わってる」とか「何を考えているか分からない」と思われることについて自意識の葛藤があったけれど、数年前、妻と付き合い始めたことをきっかけとして、今ではこの問題から概ね卒業することができた。

簡単に言ってしまうと、コウダのように、余裕ある様子で堂々としていれば大体の問題は解決される。自分の人生を振り返ってみると、社会の常識とズレていることそのものよりも、「普通の人と自分はズレている」と思い込むことによって萎縮したり、自分と同様に個性的な他者の有り様が見えないことの方がより重大な人間関係の齟齬を生み出すと感じている。

ただ、自意識の問題が解決されても、環境の問題はやはり大きい。世の中には、人の個性を強く抑え込む環境が多く存在するのも事実だ。その点、ダルちゃんがダルダル星人ばかりの職場に転職して心の安寧を得ている点にも示唆深いものがあると思う。

*1:2018/11/13追記。期間限定で『ダルちゃん』最終第52話が公開されていたページがリンク切れとなったので、はてブページに差し替えた。

*2:第2話の幼少期のダルちゃんの描写を見るとADHDっぽさもあるけれど、私は詳しくないので発達障害の観点はこの記事では扱わない。

*3:職場でダルダルしているのが男性だけで、ダルちゃんが通常人間モードで描かれている点について、性差別の示唆があるという指摘(https://twitter.com/kumo_inferno/status/1047889792732524544など)がある。重要な問題だが、非当事者という難しさもあり、この記事ではこの観点は扱わない。

『逃げ恥』から考えるこれからの恋愛・共同生活の有り方

前回の記事では、ラブコメとしての『逃げ恥』の良さについて書いた。

『逃げ恥』には、現代の恋愛や共同生活の有り方を考える上でヒントになるポイントがいくつかあったように思うので、今回はその点について書きたい。

コミュニケーションできる関係

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上の画像は序盤の2巻からの引用だけれど、平匡は純粋非モテの段階から一貫して、コミュニケーションできる(話し合える)、みくりと共に問題解決してゆけるパートナーとして描かれている。

共働き世帯の増加に代表される、昭和的な男女の性役割分業から脱した現代の共同生活においては、家庭経営においてあらかじめ決まっている役割というものがないので、常に話し合いをして、お互いの意思を擦り合わせることが必要になる。その点で、曖昧な感情の察し合いに頼らない、言語的に明確なコミュニケーションのニーズはこれまで以上に高まっていると言えるだろう。

スキンシップの安心感・リラックス効果

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『逃げ恥』はハグのシーンが多く、描写が濃いところに特質がある。また、スキンシップのもたらす安心感やリラックス効果について明確に言及されている。逆にセックスの描写はかなり淡泊だ。

夫婦の性的接触というとすぐにセックスレスがどうのという話になりがちだけれど、挿入の有無に主に着目する自意識マウンティング的な性愛観を脱して、日常のQOLを確かに向上させるものとしてのスキンシップの価値に着目すべきではないか、というのは私も常日頃考えていることだ。

性的消極性の評価

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1巻でみくりは、親族に結婚の挨拶をした際に、「みくりちゃんは平匡のいったいどこがよかったの?」と問われ、いくつか列挙した最後に、上の画像のように答えていた。

ここでは、「性的消極性=安心感」と明確に肯定的に捉えられていることが分かる。逆に、暗黙裡に性的積極性は安寧を乱すリスクと捉えられていることが分かるだろう*1。現代では、この感覚は既に女性だけではなく男性も「自分のこと」として分かって来ているのではないか。BL文化の発達等の影響で、女性の男体に対する性的消費のナマの圧力を感じている男性も多いはずだ。

カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したこと: 極東ブログ

レイプは犯罪です。しかし、しつこかったり下手くそだったりしても女の気をひこうとする行為は違反ではありませんし、女をくどくことは男性優位主義の攻勢でもありません。

上掲の、#MeToo運動への批判として「(つたない性的アプローチで)迷惑をかける自由」を擁護したドヌーヴらの文章が最近話題になったけれど、私の正直な感想は「そういうの要らないから」というものだった。相手に迷惑をかけるナンパ野郎になれる「自由」を認められても、そんな自由は行使せずに済む人生にしたいとしか言いようがない。

SNSの発達もあり、人間の繊細な感情の動きが逐一公開されている社会で、私たちは他者を傷つけることに敏感になっている。ドヌーヴのような旧世代の人たちに「迷惑をかける自由」を認められたところで、躊躇いもなくその「自由」を行使できるのは一部のマッチョな世界線の住人に限られるだろう。

なので、これからの恋愛の有り方は、限りなく「迷惑をかける」局面を少なくできるようになるのが望ましい。そのための方法として、

  1. 社会に浸透しつつある女性の性的能動性、男性の性的受動性を認識し、男性性欲の能動性に過剰に依存した恋愛観をアップデートする
  2. 『逃げ恥』の契約結婚のように、交際未満の恋愛的駆け引きをカットして直接共同生活のメリットにアクセスできるシステムを考える

私はこの2つのアプローチがあると考えている。

しかし、特に2つ目については、現状多くの人に採用されるほど有効な試みは実現されていないと感じる。『逃げ恥』の方法をそのまま採用するにしても、家事代行者を雇えるほど高収入の若年男性という条件で既に現実味が薄い。

このような現状から、そもそも恋愛や特定の性的パートナーとの共同生活を人生に必要な選択肢としてみなさないという方向性のアプローチも必要になってくると思われるけれど、その点についてはまた別の機会に語ることとしたい。

*1:『逃げ恥』は本編を通して性的に積極的な描写が控えめな作品と言えるだろう。イケメン風見との三角関係が描かれる中盤では、風見が半ば強引にみくりに迫るテンプレ展開が予想されたけれど、最後まで風見は紳士なキャラだった(百合との関係でも、壁ドンも壁ドンしただけだったし、「あなた僕が絶対自分に欲情しないと思ってるでしょう」と言ったときも百合との距離は1m以上離れていた)。

新時代の「都合の良さ」を詰め込んだ『逃げ恥』の魅力

あまり自分には合わない気がして敬遠していたけれど、『逃げるは恥だが役に立つ』を読んでみたらすごく面白かった。

何となく敬遠していた理由として、「家事代行で契約結婚」、「高収入で清潔感のある非モテ」とかの上辺の要素を見て、「女性にとって都合が良いファンタジーを示しただけの作品なんじゃないの」と決めつけていたというのがある。実際読んでみて、「都合が良いファンタジー」というのは確かにそうだったけれど、ラブコメとしての「都合の良さ」の詰め込み方が予想を上回る水準で完全に持って行かれた。また、これからの時代の恋愛や共同生活の有り方を考える上でも見るべき点があったと思う。この記事では『逃げ恥』のラブコメとしての良さについて書き、次の記事では、『逃げ恥』から考えるこれからの恋愛・共同生活の有り方について書きたい。

2人だけの秘密の関係

『逃げ恥』は大学院で心理学を学ぶも就活で全滅し、派遣社員として働くが1巻冒頭時点で派遣切りを食らっている求職中の主人公森山みくり(以下みくり)が、30代後半高収入清潔感のある隠れイケメン眼鏡童貞SEの津崎平匡(以下平匡)に、家事代行業として雇われるところから始まり、みくりの環境の変化をきっかけとして、各種控除等のメリットを得るために雇用関係のルールを厳密に取り決めた上で事実婚の届け出を出すというのが序盤の流れだけれど、お互いの親族や平匡の会社の同僚には、世間体を意識して普通の結婚をしているかのように通しているので、その関係が周囲にバレるかどうかにちょっとしたドキドキ感があり、実際に割とすぐに平匡の会社の同僚にバレる。

王道の三角関係

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平匡の会社の同僚風見にみくりたちの結婚の実態がバレて、そこからラブコメ王道の三角関係が始まる(平匡も風見もみくりのことが好き)。この風見というのが一見ドライで冷酷な量産型イケメン感を出しつつ、妙に生真面目で誠実なところがあり、過去の恋愛経験にトラウマあり、という平匡同様要素詰め込みまくりの人物で、この三角関係が展開される中盤がラブコメ的な強度としては一番熱い。画像の「津崎さんから聞いた?僕と津崎さんでみくりさんをシェアしようっていう話」に「えーっ!?これからどうなっちゃうのー!??」と思ったのは私だけではないはずだ(割とどうにもならないのが『逃げ恥』の良さであったりするのだけれど)。

初々しさ溢れるみくりと平匡の関係

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平匡は女性に対しての積極的な行動を完全に封印している交際経験ゼロの純粋な非モテで、みくりがリードする形で2人の関係は進展するのだけれど、みくりも大学生の頃に一度交際経験があるのみで、決して恋愛慣れしている訳ではないところに絶妙な初々しさがある。画像の初めてハグしたときの女の人が良い匂いだったとか、頭が性感帯でぞわわわわわとか「はぁー、そんなときもありましたね」って感じになる。

消極的非モテの平匡をリードするみくりが可愛い

私が提唱している概念に「消極的非モテ」というものがあるのだけれど、平匡は典型的な消極的非モテ(本当は恋愛してみたい気持ちがあるけれど、これまでの失敗経験からどうせ上手くいかないと考えて恋愛的に積極的な行動は一切取らないようにしている)で、リアルだとこのタイプが脱非モテするのには相当に強い運が必須となる(自発的な努力による脱非モテの可能性が無いので)。

みくりは、大学院で心理学を学んだ経験から、平匡の特質を、恋愛で適切な成功体験を積めなかった故の自尊感情の低さが原因と分析し、まずは「契約としての恋人関係」を提案し、月2の定期的なハグから始めて徐々に平匡の脱非モテをうながしてくれる。

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好意や感情の表明も言語的に明確に行ってくれるので、変にうがった迷いが生じることもない。まさに消極的非モテの救世主的存在と言う訳だ。

…身体もふわっとしていて抱き心地が良さそうだ。

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『逃げ恥』は平匡視点で物語が進む場面も多くあることもあって、30代後半高収入清潔感のある隠れイケメン眼鏡童貞SEの平匡がファンタジーレベルで都合の良い存在であることは間違いないけれど、平匡視点のみくりもかなり都合の良い存在であることが読者に伝わるようになっており、その点で「都合の良さの男女平等」とでも言うべき事態が生じている。

ここまで見て来たように、『逃げ恥』はギリギリリアリティを維持できるレベルで都合の良い設定が詰め込んであって、現代のラブコメとしての強度が高い。

次の記事では、『逃げ恥』から考えるこれからの恋愛・共同生活の有り方について書きたい。

「妻がキレるのが怖い」問題について

NHKクローズアップ現代で「妻が夫にキレるわけ」という特集があったらしい。

この問題は先日書いたように私も今(未婚者ではあるけれども)当事者として直面していることで、最近考察を深めているので記事を書きたいと思った。

2つの問題点

「妻がキレるのが怖い」事象には2つの問題点があると感じている。

まずは、妻がキレるレベルで夫の家事・育児貢献度が低いということ。これは分かりやすい問題点で、男性も家事への参加意識を持ち、家事スキルの向上に謙虚に取り組む以外にないと思う。

もう1つは、パートナーにキレて怯えさせる妻の問題。上記リンク先に紹介されている「書店や電気店などを4時間ほどぶらつき、妻が寝静まるのを待つ」という夫の習慣は、利害関係を考慮した合理的判断ではなく、身体が恐怖に支配されて勝手にそう動いているのだろう。恐怖は人の心だけではなく身体を直接支配し、自らの意志で自らの身体を動かすことさえ困難にさせる。いじめ、毒親、DV等、あらゆる暴力的関係性に「恐怖による身体の支配」は絡んでいて、これは最も原始的なモラハラ的コミュニケーションの型であり、どのような理由があったとしても許容されるものではない。

いったん距離をおくという解決策

私も4月には家事上のミスを彼女に怒られるということがしばしばあって、恐怖に身体を支配されかけていた。

実際私の家事スキルは貧弱なので、最初のうちは怒られるのも仕方がないと我慢していたのだけれど、どうも自分の家事スキルの低さだけが問題ではないということに気づき始める。というのも、彼女が仕事で帰るのが遅くなったときにキレやすいということが分かってきたからだ。仕事で遅く帰ってくると普段は怒らないような些細なことで怒り出して、立て続けに次々とミスを指摘して寝るまでキレ続けるというパターンがあることに気づいた。これはさすがに不当だと思った。仕事の不快感を他人に不快感を与えることで解消するというのはどう考えても非生産的で何ら事態の解決に向かっていないからだ。

そこで彼女に、指摘された問題点については改善するよう努力しているけれど、怒られても私は変わらないという趣旨のことを伝えて、彼女が怒り出したときは、黙って自室に入って扉を閉めて放っておくことにした。怒っている人を放置するのはどうなんだ、ますます怒り出すんじゃないかという懸念が最初はあったけれど、結果的に彼女は怒り過ぎたことを反省してくれて、徐々に怒る回数を減らすように努めてくれた(彼女の方としても人への当りが強い気性は何とかしたいと日頃感じていたようだ)ので、今は平和に暮らせている。

私は恵まれてる方かもしれませんね。
わりと夫は、私が一方的にちょっと攻撃性が高まっちゃう時に、それをいなしたり、かわしたりするのがとても上手です。
私が何か言いたいなって時に、彼はさっといなくなったりするんですね。
さっといなくなって、しばらくすると戻ってきて、疲れていると思うからコーヒーいれたよって言ったりするんですね。

この解決策は奇しくも冒頭リンク先の中野さんのパートナーのコミュニケーション手法に近い。

ムーチョさんの関連記事でも、怒っているときにパートナーにカフェに追い出されたら気持ちが落ち着いたというエピソードが紹介されている。怒っている人のことは下手になだめようとせずに物理的に接触をいったん断つのが正解なのかもしれない。

「思いやり」があるかないか

とは言ってもこれは彼女が自発的に怒るのをやめようと努力してくれなかったら解決しなかった問題だ。やはり最終的にはパートナーへの思いやりがあるかないかの問題になるのだと思う。家事の重役を一方的に課すというのも、恐怖で行動を支配しようとするのも、パートナーを思いやる心があれば出来ることではない。

お互いに思いやりを持てなくなったら関係を解消することも視野に入れて、地道にコミュニケーションを重ねてゆくしかないという印象だ。

セックスにおける「男性役割」のつまらなさ ―私自身のセックスの悩みを通じて―

やはりセックスにおける「男性役割」はつまらないし気持ち良くない――『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』を読んでそう思った。

この本で湯山玲子さんはオールドタイプな性規範がセックスにもたらす影響力を次のように分析している。

襲う性、オス性の魅力は、文化的に女性に相当刷り込まれているので、ほとんどの女性はセックス時のプレイ的な男の暴力性は嫌いではない。でも、それは都合がいい暴力性で、「オマエが愛おしくて、欲しくて辛抱タマラン」という愛という名のスウィートな暴力。その暴力に油を注ぐべく、生まれたての子鹿のように震えて、おののく、という女性側の演技も含めてね。問題は暴力装置による男女の支配・被支配の関係が、もう血肉化されているから、そうしたポルノでオナニーしてきて私たちに、果たしてそうじゃない第三の道があるのかという話。

そして湯山さんは、

男たちが従来の発情システムと、現実の感情にズレが生じていることを感じ始めている。

と、現代の男性たちは「従来の発情システム」に違和感があるのではないか、と指摘する。

更に湯山さんは、BLの魅力は攻めにも受けにも感情移入できることだとした上で、BLと比べてレディコミ(女性向けのヘテロエロ漫画)にはある「不自由」があると語る。

レディコミはBLに比べて、一点だけ不自由なところがあるんですよ。ヤラれる女のほうにはもちろん感情移入はできるんだけど、どうもヤル側の男のほうにそれがしにくい。女をヒイヒイさせるという役割のときに、「えっ、この女には私の心のチンコは勃たないわな」とちょっとブレーキが入っちゃう。ヘテロなゆえに、受けが女だと例の女同士の細かいセンサーが働いて「それは違う」となるんですよ。加えて、セックスは受け身のほうが絶対快感が大きいので、レディコミの場合、感情シンクロが簡単に女のほうに行ってしまう。おわかりかな?

分かります!と大きな声で言いたくなる。さらっと言っているけれど「セックスは受け身のほうが絶対快感が大きいので」これ。湯山さんはセックスにおける男性役割の快楽の少なさを見抜いているのだと思う。

セックスにおける男女の非対称性 ―私のセックスの悩み―

この湯山さんの一連の発言は、今の私のセックスのちょっとした悩みとシンクロしていて、というのも私のパートナーは攻めるのが得意で、凄まじい快楽を教えてくれたのだけれど、基本的には女の子ムードを楽しみたいようで、私はセックスにおいて男性役割を演じなければならない。

例えば、セックスが始まるときに押し倒すのは必ず私の方なのだけれど、これはもちろん「性欲に任せて」押し倒している訳ではない。彼女がセックスしたがっている様子をその日の空気で察して、いちゃいちゃしつついい感じに仕上がって来た段階で「如何にも性欲を抑えられなくなったような体で」押し倒すのだ。

やはり好きな人の喜んでくれることをしたいという気持ちはある。そうすると、「如何にも性欲に支配されて激しく身体を求めている」ような動きに彼女が喜ぶらしいということがどんどん分かってくるのだ。これは冒頭に引用した湯山さんの語る女性に内面化された価値観とまさに一致していると思う。そして私は「従来の発情システムと、現実の感情にズレが生じていることを感じ始めている」。いつか彼女がやる気になって私の身体を攻めてくれることに淡い期待を抱きながら彼女の身体を激しく求めるという「型」を実行しているのだ。

これは話し合って攻める割合を50/50にして貰えば良いということではない。彼女が自発的に察してやってくれることに意味がある。受けの快楽は贅沢なもので、ここに妥協は許されない。

まあ一応男性役割にも魅力がまったくない訳ではないのだけれど、それはある種の職人的な満足感であって、快楽の強度からするとかなり物足りないと思う。

「男が受け身」というより、「セックスはリバーシブルなのが自然」になればいいんですが。 男はこう、 女はこうと決まっているほうが不自然。

二村ヒトシさんがこう語るような理想を突き詰めて、攻めの時間配分が完全に平等なセックスとか、その日その日で役割を入れ替えるセックスとかが実現できれば楽しいと思うけれど、なかなか現実は思い通りにはいかなくて、やっぱりセックスの魅力と難しさは「人とするものだ」ということろこに集約しているのだと思う。

「言葉で伝える」ことの難しさと共感性の効力 ―人と共に一か月暮らして―

彼女とは言いたいことを言い合える関係を築けていたし、事前に不満は溜め込まずすぐに伝えることを念入りに確認し合ったので、共同生活はどうにでもなるだろうと舐めてかかっていたのだけれど、そんなことはまったくなかった。

一番大変だったのは彼女が仕事から疲れて帰ってくると私の家事上のミス(帰宅後の内鍵のかけ忘れ、カーテンの閉め忘れなど)について激怒し始めることだった。料理をして洗濯物をたたんで、それでも何か不手際があると怒られる。慣れない家事でミスをゼロにするように気を配るのは大変なストレスで、一時期は神経が衰弱し切っていた。

理想を言えば「家事上のミスについては改善しようと努力しているけれど、自分は今までほとんど家事をしてこなかった人間なのでどうしても最初のうちはミスが生じてしまうし、一々恫喝されていたのでは恐怖で委縮して出来ることも出来なくなってしまう。冷静に問題点を指摘して欲しい」という趣旨のことをちゃんと伝えれば良かったのだけれど、彼女の激務による疲労(彼女は接客業で、平日の不定休と他店舗出張が出鱈目に入り乱れるシフトかつサービス残業は当り前という環境で働いている)で余裕を失っている様子を見ると、言葉を切り出すことが躊躇われた。

結果、私は露骨に衰弱した様子で溜息をついてみせるという「察してちゃん」的な態度に出ざるを得なかった。コミュニケーション論的には「察してちゃん」は事態の解決に向かわない最悪の手段で、私自身恐怖に支配されて「察してちゃん」になっている自分はもう駄目だと思ったので、「やはり自分には結婚とか無理だった。婚約破棄して関東の実家に帰ろう」みたいに破局的な発想に走りかけていたのだけれど、廃人のようになっている私を見て彼女は怒り過ぎてしまったことを反省してくれて、今はマイルドな言い方を心がけてくれているので、二人の楽しい時間も戻って来つつある。

頭の中でコミュニケーション論を考えると、間違った内心の推量が深刻なすれ違いを呼ぶ可能性があるため、想像力とか共感性に頼らずにちゃんと言葉で伝えた方が良い、となるのだけれど、今回は彼女が私に対して共感力(察する能力)を発揮してくれたことに救われた気がする。

コミュニケーションは理想通りにはいかない。言葉も感性も使えるものはすべて使って乗り切るしかないという印象だ。